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現在地を知る

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セッションの最中は感覚が開いてきて、そうすると身体の違和感に気がつきやすくなるということがあります。 例えば左右差。上半身と下半身で別々の感じがする、とおっしゃる方もいます。 力が抜けてきたときに相対的に緊張に気がつきやすくなる場合もあるので「もしご自分で抜けそうだったら力を抜いてみてください」とお伝えしますが、抜けなくても多くの場合セッションが進んでいくうちに違和感がほどけていくか弱まることが多いです。 もしかすると私たちは普段身体をイメージでとらえていることが多くて(左右は同じというイメージがありますが、臓器の収まり方ひとつとっても人体は左右対称ではありません)でも、感覚が開いてくると実際の状態の方にフォーカスが向きやすくなるのかもしれません。 そのまま何もしようとせずに左右差をただ「違うな~」と眺めていると徐々にそれが収まっていく。そしてセッション前後で姿勢にも変化が見られる。 セッション後も「収まりの良いポジションを探索する」みたいな感じが出てくることがありますが、身体は現状を認識するとゆっくり時間をかけて新しいバランスを探し始める、ということがあるのかもしれません。心もそうですね。 人は基本的には自ら生きやすい方向に向かっていくようにできている。それができなくなるときは今に立ち戻ってみると流れが生まれてくるかもしれません。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Yielding Embodiment Orchestration Resonance Blue

high plataeu

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お気に入りの丘の上で景色を眺めながらふと、何年か前に感じていた感覚のことを思い出していました。 抗がん剤の治療と重なって起こったコロナ禍。自分の死を身近に感じたことと世界的な不安の中でなぜか私の感覚は真逆に触れてしまって、自分の中心から深い静寂と安心の感覚がわき出てきた。 世界は静かで穏やかで、この丘の上から見る景色はまるで余生のような感じがした。 あるいは私はもう死んでしまっていて、死者の目から生きている者たちの営みを美しく愛おしく眺めているようなそんな感じ。 自分がいなくなると世界と私との間に境界がなくなって、空も遠くに見える町や山々も月も、全てが親しくなる。月や空と会話ができそうな。 世界には誰もいない、とも感じた。 この1年くらいそこからずいぶんと離れてしまっていたけれど、丘の上の景色が何を大切にすべきかを思い出させてくれたように思う。 優れているとかいないとか、波動が高いとか低いとか、そういうことは事実としてあるとしてもそこに拘ると見失ってしまう。 誰もいない世界には美はあっても優劣はない。いまここに現れている平凡でありふれたことたち、窓の外の電車の音や郵便配達のバイクの音、街に漂う夕暮れの気配の中に深い懐かしさや美しさが現れて、そういう質感を愛おしく感じられること、そのことになによりも満たされるのだと知ること。 私にとってゆだねるということの本当の価値は、あの静寂と美の世界への通路になっているということ。 人の真ん中は空で、そこは空でありながら一番満ちている。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Yielding Embodiment Orchestration Resonance Blue