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10月, 2021の投稿を表示しています

選択

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乳がんの治療をするとき、私は子供の年齢や細胞診での結果も考えて全摘・抗がん剤・分子標的薬2種類という選択をしました。主治医からは部分切除を勧められましたが、もしも再発したときに後悔はしたくなかったので、その時点で自分が最も納得できる治療を選びました。今ならまた違う選択があり得ると思いますが、それはそれです。 自分に起こることを受け入れるためには自分で選ぶことが必要で、自分が選ぶためには自由が必要です。 現実的に「どこまでも自由」なんてことはありえず、選択というのは今居る環境や自分の状況の中で、手持ちのカードの中でしかできません。でも「自由という感覚」がなかったら多くの場合、「仕方なく選んだ」とか「選ばされた」と思ってしまうでしょう。 「感覚としての自由」を担保するための外的な自由もある程度必要ですが、それだけではなく「感覚としての自由」を自分の中に育てていくこともまた大切なように感じます。

それぞれの世界

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  人それぞれ異なる知覚世界を持っているのだ、ということが腑に落ちてくるにつれて、正しい、正しくない、ということに以前ほど興味が持てなくなりました。 「正しい」を辞書で引くと「道理や法にかなって誤りがない」と書かれているのだけれど、「道理や法」が立ち上がってくるための世界が異なるのだと知れば、必要以上に他者とそれをすり合わせる必要もないし、必要以上に理解してもらう必要もない。 自分からは奇妙に見えたり矛盾して見えていてもその人の知覚世界の中ではそれが立ち上がってくる必然性があるはず。 むしろ、みんなが違う世界を生きているのに出会うことができるっていうことは、とても不思議で面白いことだなあと思います。

余裕

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  yieldの師匠、 田畑さん のセッションを受けに。 セッションが終わって駅までの道を歩いていたら何の脈絡もなく不意に「ま、いっか!ドンマイ!」と思ったことにちょっと笑ってしまいました。 少し気ぜわしいことが続いて余裕を失っていたのかなと思います。 横隔膜が緩んで腹腔に消化器系がゆったり収まるスペースが出てきたら気持ちにも余裕が出てきたみたい。スペースが狭くなって内臓が圧迫されている不快感を「焦り」と脳が解釈していたのかもしれません。 「余裕を失う」「焦る」ということは気持ちとか精神状態のことだと思う部分はまだ大きかったのだけれど、「身体の状態」でもあるのだなあと思いました。 状況に引っ張られて「焦る身体」(今回で言ったら腹腔のスペースが狭い)が出てくるというのはあるのだけれど、その身体の状態が固定化してしまうと非対象、漠然とした「焦り」を引きずってしまったりするのかも。 身体と心の関係性ってやっぱり不思議で面白いな。

精霊

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 那須にキャンプに行った時、家族が寝てから1人で焚き火に当たりながら星を眺めました。流れ星がいくつか流れて、炭火が消えていくまでの間、暇だったので近くに生えてたどんぐりの木にyieldしてみました。 しばらくしたらどんぐりの木からざわざわ…と葉音が聞こえてきました。地面に近いとこは無風でも、梢の方は風が吹いているのかな。それともyieldで聴覚が開いてそう感じるのかもしれない。 そう思いながらyieldしてたら、だんだんざわざわが広がってきました。最初は3本並んだどんぐりの木。それから森全体がざあざあと。 大風みたいな音なのに風は全くなくて、森が話をしてるみたいだなあと思いました。テントに入ってもテントシートは全く揺れないのにざあざあ森中から音がして不思議だった。すぐ寝ちゃったけど。 先日、「カナルタ」というアマゾン熱帯雨林で古くからの生活スタイルを大事にして生きるシュアール族の人達の生活を映したドキュメンタリー映画を見に行きました。村の治療家みたいな人が新しい薬草を見つけるために口にその草を含んで味わっていたら急にざぁーっと森のざわめきが聴こえる場面があって、森と一緒に生きてる人たちはああいうのを森の精霊みたいに感じたりしたのかなあと、少しだけわかる気がしました。 生活が違えば全く異なった知覚世界があり、その知覚世界の中でこそ立ち上がってくる風景もあるんだろうな。

健康

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  病気してから「健康って何だろう?」って考えるようになりました。 抗がん剤の投与終了から一年半経っていますが体調が戻っていない部分もあり、それなりに肉体に(もしかしたら不可逆的な)ダメージを負ってはいるのだろうと思います。でも、感覚的には人生において今ほどエネルギッシュで健康だと感じた時期はないように感じます。 現代医学的な考え方でいうと私の健康は投薬前よりもかなり損なわれているはずなのに、感覚的にはそうではない。 病気という経験を通じて、したくないことを極力しない、好きな事・好きな人といるという、自分の感覚に従えるようになってきたというのはとても大きい(そうすることをはじめ私はとても怖いと思ったけれど)ですが、それをしてきた先に「自分の身体に閉じた命だけではなく、自然とか宇宙とかの大きなシステムの一部としてある自分の命を感じると満たされる」という感覚が出てきたことも凄く大きい。 そんな頃にネイティブ・アメリカンの教えをベースにしたサバイバルキャンプ、 WAN2 に参加して川口さんからネイティブ・アメリカンの人たちは「自然と一体化していることが健康」だと考えていたと伺いました。 なんだか似ているなあ、と思います。 健康って、何だろう?

直感を信じてみる

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抗がん剤していた頃、無性に片付けがしたくなって、体調が良い時を見計らって集中的に片付けしていたら、夫に「君が凄い勢いで片付け始める時って大体そのあと大きく体調崩すよね」と言われてハッとしたことがあります。 無意識に備えようとしていたんだなあ、と思ったからです。 そんな経験がいくつかあって、何となく、身体はほんの少し先のことを知っているような気がしています。 セッションを受けるタイミングや相手も、なんとなく、呼ばれるようにして受けに行くといいセッションになることが多い感じです。 あるいは何かちょっと人生の変わり目のような時期に、「あの人に立ち会ってもらいたい」みたいな感じで。 自分にとってのベストなタイミングや必要なものは、自分自身が一番よく知っている。 そうやって自分の直感を信じて行動してみたこと自体が、直感や自分自身との信頼関係を育ててくれたように思います。 「鶏が先か卵が先か」なのだけれど、輪の中に入るには行動してみるのが早いみたい。

動きのイメージ

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オステオパシーやSTRを使った施術をされている 田中彰先生 の「カラダと向き合うWS」に参加してきました。 例えば「立つ」というシンプルな動き。「身体は重い」「床を押して身体を持ち上げる」「それにはこれくらいの出力が必要なはず」「膝に負荷がかかるはず」という立つことのイメージ達。 田中先生の補助で立って、そのイメージを一旦外した動きを感じさせて頂く。それから自分で立つと「立つ」の感覚が全然違う。 初めて立った赤ちゃんの頃から、色々な経験や勉強の中で学習してきた「立つ」のイメージ。とりあえず日常を送るだけなら足りるだけの精度はありますが、長く快適に過ごすためだったり、ちょっとシビアな状況で動くには精度が足りない。あちこちに小さなエラーがある感じ。 そしてこのイメージのエラーによって自分で作り出している重さがある。 田中先生が感じさせてくださった事の中には、おそらく私が古武術で「浮き」だったり「脱力」という言葉で教えて頂いた事があるものと重なるところもあり、とても興味深かったです。 また遊びにいきたいな。

真ん中

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  自分が自分自身の存在の真ん中に在る事ができたときは自分自身への定義も評価もできなくなってしまう。 強いとか弱いとか賢いとか愚かとか私はこういう人間だとか、そういうものが入り込んでくる余地がない。真ん中から外を眺めているときには。

なるようになる

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「なるようになる」という言葉があるけれど、物事はそういう部分がとても大きいのだろうなと思うようになりました。 似たようなパターンの事が起こりやすいというのは何かそれが起きる条件がそろっているという可能性がある。自分のせいでもなく、誰かのせいでもなく、ただそれが起こる環境が揃ってしまっているということ。 人間というのはとても複雑なので、それが出てくる条件が何なのかという事を認識するのは難しいことが多い。けれど、そんなときは何かを変えてみて起こることが変化するかどうかを観察してみるのもひとつです。 川の流れの中に石を置いてみて、流れが変化するかどうかを見るみたいに。 何か変化したなあと感じたのなら、それが物事の前提条件と関わっていたのでしょう。 なりたいゴールに向けてあれこれ操作してみるというアプローチもありますが、シンプルに自分が惹かれたことを試してみるのも楽しいものです。 ゴールはちょっと頭の端っこに置いておいてやる、くらいで。 本当に簡単なことでいいのです。 歩くときにヘッドホンで音楽を聴くのをやめて、街のざわめきや鳥の声を聴いてみるとか。 日向ぼっこをしてみて、日差しに温かく満たされる感覚を感じてみるとか。 yieldもそんな石のひとつとして試してもらえたらいいなあと思います。

疑わない信じない

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身体感覚というのは完全に主観であるがゆえに信頼するのがなかなか難しいです。 私もだいぶ長いこと、稽古の中で色々な身体感覚を、感じたのかそれとも感じたような気がしているだけなのか自信が持てませんでした。 感じ取れたこと以上に身体感覚を膨らませてしまうとどこまでが自分がきちんと扱える感覚なのかわからなくなってしまうし、かといって「全部気のせい」にして感じたことまでなかったことにしてしまうと前に進めない。 色々と試した結果、私の中でのベストは「疑わないけど信じない」というスタンスで、この感覚は身体の稽古だけではなく人間関係や仕事なんかの中でも役に立っているような気がしています。 もしかしたら、このスタンスを目指すことが「ありのままに受け取る」ということの稽古になっていたのかもしれないなあ。

間合いを学ぶ

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yieldでは間合いを使いますが、特に最初のポジション決めの時にはどんな間合いを使うか、相手によって少しづつ変えています。 間合いは「この感覚がいい感覚」という固定的なものではなく、人の組み合わせによって快適と感じる感覚がお互いに異なるからです。 親密な間合いが心地よいと感じる組み合わせもあれば、もう少し距離があって風通しが良い感じの間合いの方が心地よく感じることもあります。 セッションの中でその間合いが「心地よいかどうか」「どんな感じがするのか」ということに目を向けていくと、自分と相手が相互に心地よくいられる間合いの感覚を学ぶことにもつながっていきます。 お互いに心地よい間合いを保つことができるようになると、人間関係が変化することもあるかもしれません。 セッションの後、そんなことも観察してみていただけると面白いと思います。

バルコニーセッション体験記①

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UNDOでのバルコニーセッションをお受けくださったオステオパシーの治療家の方よりご感想をいただきました。 深い身体への理解、鋭い身体感覚のある同業の先輩の体験は、身体とは何なのかということやyieldの探求にも大きなヒントになる感じがして、とても興味深いです。 とても良い時間を過ごさせていただき感謝です。 9日にセッションして頂きありがとうございました 今日からだいぶ馴染んで来た感じです。 先週は面白い感覚が色々体験しましたよ。 自分の感じでは発生学な治癒が行われていた様です。 身体のシーム、顔のシーム(上、中、下)と。 12日の火曜日は上から自分に強烈にエネルギーが流れて来てそのまましっかりグラウンディングへ繋がっていってました! 状態が良く眠い日が続きましたが患者さんへのセッションは楽しく出来たので良かったです 海さんありがとうございました

ルビンの壷

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昔、古武術の山口潤先生が 「隙間というのは2つ以上のものが同時に目に入ったときにできる空間のことで、もしも大草原にぽつんだったらそれはただの空間です。」 とおっしゃっていて、なるほどなーと思いました。 yieldで扱うのも「間」。 二つの相反するものが同時に目に入るとき、生きることのダイナミズムを感じるのはなぜなんだろう。 「生と死」「永遠と瞬間」「自己と他者」 「ある」ところから眼を反転させて「ない」ところを見るとき立ち上がってくるものたち。 世界はルビンの壷みたいだなあ。

抱擁

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まだ長女が赤ちゃんだったころ、彼女を抱いているようで抱かれているような感じがすることがありました。 「抱く」と「抱かれる」がほとんどイコールになってしまうような抱擁。幸せな瞬間だったなあと時々思いだします。

11/13体験セッションを提供します

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  11月13日UNDO-空につながる静かな土曜日-身体の奥の安らかさに触れる- で体験yieldを提供させていただきます。 年内最後のUNDOです。 今回も、ダムタイプはじめ身体や空間とのコラボレーションで活躍されている山中透さんの構成した、身体に溶け込むようなオリジナルサウンドとのコラボレーションです。 yieldの他にも、山中暁子さんの静かで瞑想的なバイオダイナミクス、バイオダイナミクスやSTRをベースにした田中彰さんの大丈夫な感覚に繋がるオリジナルセッションをお受けいただけます。 どうぞお気軽に、日常を離れた空間の中でご自身の身体に寛ぐ感覚を体験しにいらしてください。 ☆日時:11月13日土曜日 10時から19時(最終受付18時) ☆開催場所: 場所:atelier flow バルコニー 世田谷区奥沢1-9-2 ジョイフル田園調布301 ☆最寄駅 目黒線奥沢駅徒歩7分 奥沢小隣 ☆セッション料(お飲み物つき): 山中、田中 5500円 馬渕 4500円 当日受付にてお支払いください。 ※事前予約制です。ご予約時にご希望の時間とセラピストをお知らせください。 申込・問:atelier flow やまなか info@atelierflow-bio.com 090-9205-7766 ☆担当セラピスト  山中暁子 バイオダイナミクスオステオパシー https://atelierflow-bio.com/   田中彰 バイオダイナミクス STRその他オリジナルプログラム https://seitai-7652.business.site/ 馬渕海 Yielding enbodiment https://www.resonanceblue.com/?fbclid=IwAR1DA_rxXJKlDPwF9vnIvbD6yDNcZfWaztuu4dlfAUO0qN3XqZosDcYc0BI   11月13日UNDO-空につながる静かな土曜日

波紋

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目に見える動きがあれば、ミラーニューロンの働きでそれを真似ることができる。 でも、目に見える動きがなくても、人の佇まいだったり内的な状態は身体で感じ取ることができる。それもやっぱり、相手を無意識に真似ることで感覚を感じ取っているのではないかという感じがします。 同調して知る。でも、同調しっぱなしだと疲れてしまうから、わかった後は自分に戻ってこれるといいと思います。 水に石を投げたら波紋が広がるけれど、しばらくしたら静まるように。 ずっと乱れのない状態で居続ける必要はなくて、ただ波紋が消えてゆくのを静かに見守っていればいい。落ち着きやくつろぎの感覚がベースに響いていることを思い出せばいい。

検診

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  術後2年目の検診が無事終わりました。 また1年、思い切り生きられるのが嬉しい。 乳がんになって1番変わったのは自分の人生を1年更新で考えるようになったこと。 道半ばで終わりになっても、成果が出る前に終わることになっても、後悔しない道を選びたいと思うようになりました。 会ってみたい人。 やってみたいこと。 自分を満たしてくれるものたち。 ひとつひとつ飛び込んでみて、触れてみて、どんな感じがするのか。確かめながら進んできて、だいぶ何があっても後悔しない感じに近づいてきたかなと思います。 日々満たされるものを選び続ければ満たされた人生になるし、そのためには自分が何を感じているのかを知って、それを自分で選んでいけば良かったのだなあ。 身体感覚を探求する事を通じて、私は私自身を探求してきたのかもしれません。

いまここ

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はじめて見たときには「不思議な感覚だなあ」としか思わなかったのだけれど、「いまここ」というのはこの感覚のことを言ってるのか、と思うことがあります。 「いま」というのは「気がついたらここにいた」「ずっとここにいた」みたいな感覚のこと。永遠ってたぶんこのこと。去年初めて一人で月を見上げているときにそれを感じて、不思議な気持ちだなあと思いながら少し涙しました。 「ここ」というのは「自分が世界の中心である感覚」。自分の周り全ての方向に空間がある。最初は後ろが出てきて、次に左右が出てきて、そして上が定まったとき、広がりは「ここ」から始まって、どこまでも続いていくのだと思いました。そして終わりもたぶん、「ここ」。 時空間の中で自分の座標が定まる、それが「いまここ」という感覚なのかなと思います。 そして座標が定まるとどういうわけか「満ちる」感覚がでてくるみたいです。 だから涙が出ちゃうんだろうな。

静けさ

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静寂というのは無音のことではなくて、ひとつの響きです。 その響きの質を見つけられるようになると色々なところで静けさを感じることができるようになるみたいです。 電車を待つ新宿駅のホームで。 区役所の待合ロビーで。 病院に向かうバスの中で。 時々、自宅の近くを歩いていて高原にいるみたいだなあと感じることもある。 そして逆説的なようですが、静寂の響きがあると色々な音が聴こえてきます。 静寂の中でどんな風景が立ち上がってくるのか、感じてみてもらえたらいいなあと思います。

感覚の統合とイメージ

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身体感覚を感覚器ごとにカテゴライズしたもの、五感。私も以前はこの区分がはっきりしたものしか感じ取れなかったように思います。 でも最近感じているのは、ひとつの感覚に過剰に集中しすぎずにぼんやり眺められるようになってくると、異なったカテゴリーにある感覚が繋がってイメージのようなものが立ち上がりやすくなるようだということです。 星のひとつひとつを眺めたら光る点しか見えないけれど、視野が広がっていくつかの星を目に入れられるようになると星座が現れるように。 見えている層が少し変化してきたのかな。

アート

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セラピストの先輩、 柴田先生 のセッションを受けにいきました。 右脚をもの凄く微細に動かして頂いている時、その微細な動きの質に自分の身体がシンクロしていくのを感じました。自分の身体がゆらぐ水面になっていて、それを眺めているような感じ。 その揺らぎがたまに部分的にフリーズする。ノイズの入った動画を見ているときみたいに。 少し集中して水面の揺らぎに意識を向けてみると、そのフリーズみたいなものが起きている奥に、何か動いているものがある感じがしました。目を凝らしてみたら水の中に何か生き物がいた、みたいな感じ。 その生き物は波から逃れようと身をよじったり、波に逆らおうとしたりしていて、何となくその動きの中には過去の感情みたいなものがある気がしました。 普段は自分の質に埋もれて見えないものが、自分と違う質が素地になったことで浮かび上がってきたんだろうなあ。 質というのはこんな風に伝える事もできるのかと驚いたし、他者とセッションすることの意味を改めて感じました。 素晴らしいセッションに出会うとセラピーというよりもアートだなあと思います。

yieldを学びたい方に

yieldは受けるのも楽しいですが、自分がワークする側に回っても素敵な風景を感じられる技法だと思っています。 私自身最初からセラピストやボディーワーカーになりたかった訳ではなく、田畑さんのyield体験WSに参加して感じた風景に魅せられて本格的に学ぶようになりました。 既にそのようなお仕事をされている方にも役に立つ技法だと思いますが、かつての私のように興味だけで参加して見ても世界が広がるのではないかと思います。 11月から創始者の田畑さんが yieldを学びたい方向けの講座 をされるそうです。 間合い。そして生き物同士の身体で起きていること。不思議でおもしろいです。ご興味持たれた方はぜひ参加してみてください。

安心のなかで起こること

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普段私たちは「安心・安全」を、そう感じる理由があるから起こる感覚なのだと思っている。 でも、私がyieldを受けたりワークしたりしていて感じていることは逆です。 安心・安全な感覚があるから、世界の美しさに目を見張ることができる。 安心・安全な感覚があるから、人間を信頼できる存在として関わっていくことができる。 安心・安全な感覚があるから、わくわくしながら冒険してみようって思える。 何かがあるからそう感じる、とは限らない。 先にそれが自分の中にあって、そこから世界が起こっていくようなことだってあるんじゃないかなって思います。  私がyieldが素晴らしいなと思っているのは、何か安心・安全になるような理由、例えば美しくて健康な体だったり、クリアな思考だったりというものではなくて、安心・安全な感覚をダイレクトに伝えることができるというところです。 結果的に安心・安全な感覚の中で深い休息や心身の治癒が起こってくることが多いですが、それはその時の身体がすること。基本的に私のyieldセッションでは扱いません。 安心しているとき、人は優しくて好奇心や勇気があるように見えます。そうなろうとしてそうなるのじゃなくて、自然とそうなる。そこにほかの人を包んであげることもできる。 特別なものじゃないけれど、空気や水のようにいつでもそこにあって生き物を養うもの。 安心ってすごいなと思うのです。

存在の美しさ

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  昨日のUNDO静かな土曜日では4人の方に空の下でyieldさせて頂きました。 セッションの後に少しお話させていただいて、「感じること、それを表現することを自分に許すと人は意思も身体もはっきりしてくるのだな」と思いました。 そして、その人らしさがくっきりとした姿は個性的で美しいのだなあと思いました。 海も山も木も石もそれぞれの美しさがあるように、人間にもそれぞれ存在そのものの美しさがあるのだなあ。 街にいながら森や山や他の星を一緒に旅したようで、とても幸せな時間でした。出会ってくださったことに感謝です。

メディスンホイール

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  昨晩はWAN2でお世話になった 川口拓 さんのオンライン焚き火に参加しました。 部屋にキャンドルを灯して、zoom越しに焚き火を囲む川口さんのお話を聴く。 メディスンホイールという図に表されているネイティブ・アメリカンの人達の世界観についてのお話を伺ってから感覚瞑想をしたのですが、そこで得た感覚がメディスンホイールの図そのもので、もの凄くエキサイティングでした。 全方向に音や触覚、空間の感覚が広がっていくと身体の中心に軸ができる。それが細くなると上方向に繋がりができる。yieldしてるとたまにトーラスみたいな形のものを感じるのですが、トーラスを投影図にして方位つけたのがメディスンホイールなのかもと思いました。 感覚的に見た身体という観点から見ると、色々な文化の中で使われてきた癒しの技法には共通点はある方が自然かなと思います。 自然の中で生活していたネイティブアメリカンの人達のメディスンホイールに方位があり、トーラスにはない(あまり詳しくないですが、トーラスって現代のものでよく使われてるような?)というのも、生活環境から来る知覚世界の差なのかなという感じがして非常に興味深い。 わくわくしちゃいました!

大丈夫

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生き物はみんないつも同じコンディションに固定されているわけではなくて、好調期もあれば低迷期もある。 身体を整えるということを考えたとき、常に好調期に居続けるよりも、好調期には好調期の、低迷期には低迷期の経験を自分の糧としながら世界の豊かさに気づいてゆけるような、そんな身体になる方がいいような気がしています。 低迷期になったとき、「どうなっても大丈夫」という感覚があれば起こるに任せておける。ゆっくり休んで身体が動き出したときに流れに乗っていけるような心と身体であれたらいいな。 そういう過程の中で出会うべき人と出会い、お互いに必要な経験をシェアしてゆくことが私にとってのWell-beingなのだと思います。 生きてゆくことは楽しいし、それが終わってゆくこともまた美しい。 「ゆだねること」はそんなあり方の鍵になっているように思います。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Yielding Embodiment Orchestration Resonance Blue

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石と石を打ち合わせて石器を作る体験をしてみると、石には石の性質があるのだなあということが分かります。 例えば石器にする方の石は、薄く割れやすい石とそうでない石がある。多分、結晶構造みたいなものが関わっているのだろうなと思うけれど、それを知識として知っているだけでは石器は作れなくて、石の構造がもたらす質感を感じ取れないといい石が選べない。 そして、石を打ち合わせたときの感覚。 WAN2で川口さんに見せていただいたお手本では石を打ち合わせたとき、私のと川口さんのでは音が全然違いました。川口さんのは、くっきりとして直線的。力がひとつに集まって抜けてく感じの音。音を聴けば石が割れるような叩き方ができているのかどうかがわかるんだなあと、川口さんのに近い音が出るような叩き方を探しました。 「勉強」というと「体験から得たエッセンシャルな部分をいかに集め繋げるか」という知識的な感じになりがちだけれど、「体験すること」「質を知覚する」ということのなかでしか学べないもの、触れられないものがあるのだなあということを思いました。 yieldにも「質」があります。静寂や平和の質感。身体的共鳴や間合いを使ってそれを受け手の方に感じていただくのがyieldの技術であり、受け手としての経験から、その質は受け取って下さった方が継続して育てる事ができるものだと感じています。

不動明王

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近所にある等覚院というお寺に不動明王の像があって、時々お参りに伺います。 この像、右目は「私」を見ていると感じますが、左目は私の後ろにあるものや腹の底を見透かされているような感じがする。 乳癌の治療をしていた頃「病むのも死んでしまうのも仕方がないとして、自分は納得と共に世を去れるような生き方ができるだろうか」と、この像の眼差しに助けられながら、自分の心の奥にあるどろどろした気持ちを眺めたりしていました。 普段は自然の中に神様的なものを感じるのですが、人間が人間である事で抱えざるを得ないような苦しみは、自然ではなく人間の形の神様に受け止めて貰う必要があったのだろうなあと感じます。 左右の目が見ている場所が違う仏像ってよく見ると結構あるので(不動明王や仁王のような、逞し系の仏様に多い気がする)、前に立った時にどんな感覚がするか感じてみてはいかがでしょうか。

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キャンプに行きました。 石器作りであれ、火起こしであれ、適した素材を選ぶという事がかなりのウェイトを占める気がしていますが、私にはまだそれが全然わからないのでとりあえずホームセンターにあったもので実験をしています。 朝、肌寒い中紐を解したり木を削ったりしていると、太陽が登ってきて背中を暖めてくれました。 東洋医学では日の当たる側、背中が「陽」なのだけれど、それはこういう感覚のことなのかなあ。 じゃあ、夜、焚き火に向かって想いに耽るあの感覚が陰なのか。 東洋思想ではこの世にある全てを陰陽で考えると聞いたことがありますが、少し興味が湧いてきました。

祈り

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「ロミオとジュリエット」っていう古い映画があります。 昔見たとき、出会った二人が手のひらをそっと合わせるシーンがとても綺麗で心に残りました。 ふと思い出して、自分の2つの手のひらをそっと合わせてみました。 お互いをよく知るために。気持ちを伝えあうために。ひとつになるために。 人が感謝や祈りを捧げるときに手のひらを合わせるのが何故なのか、わかった気がしました。 この感覚を、「感謝」とか「祈り」という言葉で表現するのかな。

止まる

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「揺さぶり」に対して動揺しまいと抵抗して自分を固めると流れが止まる。 動揺することの最も不快なところは「流れが止まる」ことであって、揺さぶられること自体ではないのではないかという気がします。  

思い出

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 2年前の今日、乳がんの手術のために入院しました。 朝、仲の良いママ友さんと偶然会って、オープンカーで病院まで送って貰いました。 道に迷って黄色のロードスターで笑い転げながら走った街の空気は澄んでキラキラしていて、「大丈夫だよ」とハグしてくれたママ友さんの優しい瞳とハグの暖かさとが今も私を暖かい気持ちにしてくれます。 大変なはずだったあの朝の風景を軽やかでキラキラしたものに変えてプレゼントしてくれたこと。 一生忘れられない素敵な思い出です。

平和の音

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yieldのモードに入ってくると音の聞こえ方が変化します。 遠くで鳴いている微かな鳥の声、近所を走る郵便屋さんのバイクの音、子どもが遊ぶボールが地面につく音。普段は拾えていない音が入ってくる。音の反響から立ち上がってくる空間の感覚。人の気配。 穏やかな日常生活がそこにある。あまりに平凡すぎて普段は気が付きもせず通り過ぎてしまうけれど、その気配を感じると不思議に満たされた気持ちになります。 そういえば似たような音の感じだと思うのがリラックスとか入眠のための環境音のCD。あれはリラックスしたときにどんな聞こえ方をするかを再現することで脳をリラックス方向に向かわせる装置なのかもしれないな。

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空の高さや、澄んだ日差し。 黒く濡れた枝に取り残された柿の実の朱色。 静かな虫の音。 風景に気持ちを託すとか風景が心の比喩になってるとかじゃなく、風景に感じたこの感覚に名前を付けたものが「心」や「気持ち」だったりするのかもしれないなあ。