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8月, 2021の投稿を表示しています

風景に分け入る

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山が見たくて出かけた日、最初は「少しでも山に近いところ」と思ってリフトに乗って山頂にある展望テラスに行きました。 眼下に森。雲の影が落ちていて、地平線の方には山並みと青い空。とても綺麗だったけれど、「今私が見たいのはこの風景じゃないなあ」と思いました。 山を下りて、近くの牧場へ。森と牧草地の境目を一人でお散歩。とてもしっくりきました。 山の上から眺める景色は見晴らしがよくて、全体が見える。でも、見えている風景とは少し距離があるかもしれない(自分のコンディションにもよるけど)。森の中の風景は見通しがきかないけれど、風景の中に入って色々なものに全身で触れて味わうことができる。 これって、客観と主観みたいだなあ、と思います。 森の中に分け入っていくには危険もあるし、知恵も勇気もいる。でもきっと今私は森に入ってみたいんだなあと思います。入っていかなければ感じられないものを感じに。

自分でいること

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経験上、人をコントロールしてあまりいい感じになったことがない。だけど頭でわかっていてもコントロールしたくなってしまうもの。 それは多分、相手によって自分の存在が脅かされるから。 人をコントロールしようとせずにいられるためには相手がどうであれ自分がきちんと自分でいられる事が必要なのかなと思います。 振り回されないために、距離を置くというのもひとつ。 相手にそこまで興味を持たないようにするというのもひとつ。 身体を整えるのもひとつ。 そして相手が何をしようと自分の気持ちが変わらないこと。相手の存在に対する信頼をもてたなら、それもまた相手へのコントロールを手放す力になるのかもしれません。

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高校時代は山岳部に所属していました。夏休みは槍ヶ岳とかを縦走していたのでこの時期になると猛烈に山が恋しくなります。 本当はきちんとトレーニングをしてどこかのパーティーに入れてもらうなどしてまた山に登ってみたいのだけれど、なかなか環境が整わず。せめて山の近くに行くだけでもと清里に行ってきました。 牧草地の上をたくさんの蜻蛉たちが透明な羽をキラキラさせて飛び交っている。甘い野原の匂いのする風が吹いて、雲がくるくる渦を巻きながら流れてゆく。光も影もくっきりとしたその風景の中でのんびり過ごしたら、ここのところ感じていたそわそわした感じが解けていってちゃんとここにいる感じが戻ってきました。 世界は静かで穏やかで、なんて美しいのだろう。 人間の世界は観念の世界だけれど、自然はそれを外して見せてくれるんだなあ。

白いキャンバス

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 「心身一如」という言葉があるように、身体が落ち着くと自動的に心も落ち着いてくると感じますが、それにもいくつか段階があるように思います。 私の場合は二年半くらいかけて ・身体の力みが抜けて休息が取りやすくなる ・視野が広くなる         ↓ ・セッション中に夢をたくさん見る(記憶か感情か、何かを整理しているような感じ?         ↓ ・セッション中に静寂の感覚が出てくる(それまでは、無意識にずっと何かを思い続けていたんだと思う)         ↓ ・静寂のモードが日常の中でも出てくる         ↓ ・何もしてなくても充たされているような感覚が時々ある ・感情や思考が少ない という感じで進行してきています。 パントマイムの稽古で「身体の姿勢や動き、呼吸を使って感情を作り出す」ということをしていたので、「感情は身体の状態に由来するのだ」ということは理解していましたが、表現として感情を作り出す前のニュートラルな状態(のつもり)の自分の身体がこんなにも感情に染まっていたのだなということは身体が落ち着いて初めて実感できました。 きっと感情表現の稽古をしていた頃の私は既に絵が描かれたキャンバスの上に更に絵を描いていたような状態だったのだろうなと思います。今は真っ白とはいかないけれど、もう少しキャンバスとしての用を果たせる身体になりました。 とはいえ今は表現をする気はないのでキャンバスとしての身体はそんなに必要ではないのだけれど、感情に振り回されないということはとても楽だなと感じます。もちろん、嫌なことがあれば腹も立つし、好きな人と一緒に居る時間は心地よくて楽しいですが、感情はその場を離れれば忘れてしまうか、とても薄くなってしまう。絵を描いた後、キャンバスがちゃんと白に戻るみたいな感じ。 外の状態に対して反応ができて、そしてその反応が終わる身体になってきたのかなと思っています。 悩まない、引きずらない、というのは心理的なアプローチと思われがちですが、経験では身体が落ち着けばそれは自動的に出てくるようです。ちょっと時間はかかるかもしれませんが、yieldのもたらす深いリラックスや落ち着きはストレスをリセットしやすい身体に繋がっていくのではないかと考えています。

チューニング

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パントマイムの稽古をしていた頃に見つけた遊び「形を真似してみてどんな感覚がするか感じてみる」。人間でも絵でも彫刻でもなんでもいいのだけれど、その形になってみて感覚を感じてみる。今思えば、ミラーニューロンのトレーニングになってたんじゃないかって気はするのだけれど、この遊びは施術を学ぶ時にも役に立っています。 動きとか形とかいうのは大概ある感覚を持った結果そのようになっているので、形を習うのに形だけをずっと見てしまうと先生の技術の本質は見えないように思います。それよりも、先生がその動きなり姿勢をしているときにどんな感覚でいるのかを探してみる。慣れてくると身体を動かさなくてもある程度は感覚がわかるようになるみたい。 といっても見てわかることには限界があります。だから、先生に「こんな感覚がしたのですが、どうなのでしょうか?」ということを質問して照合してみる。私の場合は1年くらいやってるとなんとなく基本の感覚が少しづつ掴めてくる感じでした。 パントマイムと施術じゃ全然違う事のように思えるけれど、身体感覚をどう使うかということでいうと共通することはとても多くて、ほんの少しアレンジして同じことを稽古してるなあって感じがします。

ゆるむ

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  古武術の山口潤先生がおっしゃっていて「そうだなあ」と思ってずっと大切にしている事に「自分の機嫌を自分でとる」というのがあります。 他人に機嫌をとって貰うということは自分の機嫌が他人次第になってしまうということ。相手が機嫌が悪ければそれに巻き込まれてしまう。でも、自分で自分の機嫌を取る事ができたら、周りを自分の「機嫌の良さ」に巻き込むことができたら、自分も周りも快適でいられる可能性が高い。 そして自分の機嫌を取るために必要なことのひとつは「身体が感じたことを無視しないこと」のように感じます。 感じたことをすべて行動に移す必要はなくて(社会生活営もうと思ったらそんなの無理だし)、ただ感じることを自分に許すこと。こう書くと心の問題のように思えるけれど、私の経験ではそれはかなりの程度身体の問題です。感じて、それに反応して、その反応に留まらずに流れてゆくためには、緩んだ身体、状況の変化についていける身体が必要なのではないかと思います。 私はパントマイムや古武術やヨガなどの稽古の中でそれを学んできましたが、yieldを受けることも緩むことの学習の一つとしてとても効果がありました。身体の力がうまく抜けないという方にもyieldをご活用いただけたらいいなと思います。

9/11 「UNDO 静かな土曜日」で体験セッションを提供します

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9/11 「UNDO 静かな土曜日」で体験セッションを提供します。 プライベートセッションとは一味違うオープンスペースでのセッション。気軽にyieldの感覚を体験していただけます。他にも、山中曉子さんの深くて静かなバイオダイナミクスオステオパシーもお受けいただけます。どうぞ遊びにきてください。 ~以下ご案内です。~ 第二土曜日、いつもの UNDO は9/11。 いつまでも記憶から消えないこの日のセッションは黙祷から始めます。 コロナ、大雨、災害、世界中が不安の中にあるこの時、夏の終わりの爽やかな空の下で一緒に平和を祈りましょう。 ※黙祷は、4時に行います。セッションのご希望ない方も宜しければご参加ください。 各セッションは、黙祷をしてから始めます。 UNDO(アンドゥ)とは ボディワークの体験の場、くつろぎの場として、サロンのバルコニーを解放して行っているヒーリングイベントです。 タイトルのUNDOとは元に戻す、結び目を解くなどの意味があります。空に近い穏やかな風が通る空間、流れの中で、しばし都会の喧騒を忘れてご自身とつながり直すひと時を。ぜひ心身を休めにいらしてください。   日時:9月11日土曜日 10時から19時 開催場所: 場所:atelier flow バルコニー 世田谷区奥沢1-9-2 ジョイフル田園調布301 最寄駅 目黒線奥沢駅徒歩7分 奥沢小隣 入場料:800円 セッション受けられる方は入場料込み5500円 ※馬渕のセッションのみトライアルにつき入場料込み3500円 受付にてお支払いください。 申込・問:atelier flow やまなか info@atelierflow-bio.com 090-9205-7766 ○セッション 時間:10時から19時(最終受付18時) 事前に、ご希望時間と下記よりご希望のセラピストをご予約時にお知らせください。   担当セラピスト  山中暁子 バイオダイナミクスオステオパシー https://atelierflow-bio.com/   田中彰 バイオダイナミクス  STR その他オリジナルプログラム https://seitai-7652.business.site/  (9月11日はお休みです) 馬渕海  Yielding enbodiment https://www.resonanceblue.com/?f

出発点

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宮崎駿さんが書かれた「出発点 1979~1996」という本の中の「コナン」のインタビューに「人間が変化する」ということについての文章があります。 「人間が変わっていくということがどういうことなのかというと、その人間が変わりたがっているから変わるのだという事しかいえない」 「人が変わるっていうのはどういうことかといったら、突っ張ったまま変わるんじゃなくて、突っ張らなくても済むような気持になることだと思うんです。どうしたら突っ張らなくて済むかって言ったら、その人間が突っ張っていることを非常に深く理解してくれる人がいて・・・なぜその人が突っ張っているか克明に知ったわけじゃなくて、その人間の表面の奥にあるものを理解する人が現れると、その人間が変わり得るんじゃないか。ひとつのバリケードを自分で壊すことができるというのかな・・・」 宮崎さんは「理解」と書かれているけれど、私はそれはどちらかというと「理」ではないかもしれないなと思います。人間が深く悲しんだり苦しんだりしているとき、飼っている犬や猫がそっと寄り添ったり慰めに来てくれたりすることがあるでしょう。言葉や理屈でそれを取り出して操作したりするのではなくて、ただそこにあるものに寄り添う感じ。あれが私の中では宮崎さんが書かれている「理解」に近い。 その人の内側から起こる変化は素敵です。凍り付いた大地に春が訪れて花が咲いたり雪解け水が流れ出すように、その人自身だけでなく、周りの人たちにも春を連れてきてくれるように思います。

白い牙

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子どものころ、ジャック・ロンドンの「白い牙」という小説を絵本にしたものが家にあって愛読していました。大人になってから小説版を読み返してみたらとてもよかった。 「登場人物が雪原で飢えた狼の群れに囲まれて、今まさに食い殺されそうになっている」 というシーン。仲間もそりを引く犬たちもみんな食われてしまって絶体絶命の状況の中、その人はふと自分の手を眺めて「なんて精密で美しいものなんだろう」と思う。死を覚悟したときにその人の目に飛び込んできたものが自分の身体に流れる生命力の豊かさや美しさであることに心動かされたし、生と死の対比があまりにも鮮やかで美しいなあと思ったのでした。 一昨年乳がんがわかり、自分の命には限りがあるのだなあということを身に染みて実感しました。化学療法の点滴から数日の間は体調が落ちて寝ているしかなく、でも日がたつごとに少しづつ盛り返して元気になっていく自分の身体の生命力を頼もしく眺めて過ごしました。「白い牙」ほどダイナミックではなかったけれど、あの時間は日々の生活の中で自分の生を支えてくれている身体への信頼を育んでくれたなあと思います。 死や病や老いや不調を忌むばかりでなく、それと対をなして立ち上がってくる自分の生命力に意識を向けてみるのもまた味わい深いと感じます。

ご紹介いただきました

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  先輩セラピストの柴田先生にブログでご紹介いただきました。 yieldは関係性を扱うという側面があります。プラクティショナーの在り様や受けてくださる方との間の信頼関係が深いリラックスや身体の変化にも反映されます。 そう在れるようにセッションの時は全力を尽くしますが、信頼できるかどうかは相手が決めること。 ですから素晴らしい施術をされる先輩にこのような形でご紹介して頂いたことをとても光栄に感じます。 ご縁あって出会えた方に良いセッションが提供できるよう、更に探求を深めていきたいです。 整体院BON

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  10年以上前、パントマイムの稽古に熱中していた頃に新宿駅で脚が悪いのであろうと思われる方が階段を降りていくのを見かけました。 その歩き方は多くの人たちの歩き方とは違っていたけれど、ふわり、ふわり、と一段一段降りてゆく姿が実に美しくて、動きの洗練というのはああいうことをいうのだろうなと思いました。 完全無欠な身体もいいけれど、それよりも私は、何か欠けていたりうまく機能しないところがあってもそれに適応して自らを洗練させていくような身体システムに惹かれます。それはきっとその人の生き物としての意思と生き様そのもの。 あれから長い時間が過ぎて施術をするようになって、ワークの中で時折、受け手の方にあの時感じたような尊さと美しさを感じることがあります。 おそらく誰の中にもある、生き物としての力につながり直すお手伝いができたら嬉しいなあと思います。

ペットボトルで遊ぶ

  水を入れたペットボトルを頭にのせて何かする、っていう遊びを時々してみるのですが、結構面白い。 全部水入れちゃうと難しいし、かといって空に近いとこれまた難しい。半分くらいがいいかんじかな。これは去年の初夏、ペットボトルを頭に乗せて走る遊びをしているところ。まだ化学療法で抜けた髪が生えそろわない頃で綿ニットの帽子をかぶっていて、ペットボトルとの摩擦が増えている分難易度が下がってるっていうのもあるのですが、意外と走れました。 ただ、腕を思い切り振ると軸がブレてペットボトルが落ちてしまうので、それを避けるためになんかちょっとダサい腕の振り方になってしまっていて、ここは研究の余地ありです。 コレやってるときの自分の感覚としては ・ペットボトルの上までが自分の背骨(ペットボトルを自分の身体の一部のように認識する) ・頭が上下動するとペットボトルを落としやすくなるので、腰から下のクッションを効かせて脚運びの時の上下動を吸収する ・ちょっと忍者みたいな感じ です。 実際に身体動かして結果に結びつくか、感覚と動きが結びついているかを確認してみることは、概念としてのイメージではなく身体感覚としてのイメージをつかまえるために役に立っているのかもしれません。

感覚を使う

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先日yieldのWSの中で「いい間合いの場所は自分の行動を制限される感覚がないのだな」と感じたこと。 柴田先生 のセッションで感じた「人との関係の中での研ぎ澄まされたリラックスの感覚」。それらの感覚がうまく消化されて身についてきたのかなと思うのですが、ここ数日人と接する場面でこの2つに通じるような感覚が出てくることが何度かありました。相手を縛らない、自分も自由な感覚の中から出ないようにしてコミュニケーションすると、少し踏み込んだ話をする時にも軽やかに話ができるのだなあと感じました。 これは自分がパントマイムや武術も含め、色々なジャンルのことを身体感覚にフォーカスして学んできた経験からの感想ですが、形ではなく身体感覚にフォーカスして何かを経験することの良さというのは、その感覚を見た目が全然違う物事に適用できることにあるような気がします。あるいは、身体が勝手に適用してくれることもあるかもしれません。 パントマイムで得た感覚を武術や施術に、武術で学んだ感覚を施術やパントマイムに、施術で身に着けた感覚を武術やパントマイムに。全く違うことをしていても、使い方が違うだけで同じ感覚をベースにしているということがしばしばありました。 最近yieldのセッションの中に、受け手の方に間合いでの感覚の違いを感じてもらうようなことを入れるようにしているのですが、感覚として知ることで日常の中でもそれに気が付いて頂けたら、いつもと違う風景が立ち上がってくるかもしれない、と思うのです。

サッカード・ディスプレイ

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博物館で「サッカード・ディスプレイ」というものを見たことがあります。 説明書きには 『人間は、無意識のうちに、自分の見たいと思う方向に眼を素早く動かしています。この眼の動きは「サッカード」と呼ばれます。この眼が動く一瞬の間に一列の光を高速に点滅させると、光列が網膜の上で面になって、二次元の絵が現れます。このように、知覚の仕組みと先端技術が結びつくことで、私たちの感覚の世界は広がっていきます。キョロキョロと眼を動かすと見えてくるディスプレイ。』 と書かれていました。 どういうものかというと、普通に見ると光る棒なのですが、ふとした瞬間にその棒から横に絵が飛び出して見えるのです。「無意識の眼の動き」というのが大事みたいで「あれ?絵が見えた?」と棒を凝視してしまうと見えなくなって、あまり意識的に見ていない時にふっと見える。だからどうしても絵が意識の真ん中には入ってこなくて、見えてるし、なんとなくわかっているのに何の絵かを見極めきれない(凝視できないので)…という不思議な見え方のディスプレイでした。 感覚にもこういうのがあるなと思います。凝視してそれが何なのかを見極めようとすると見えなくなってしまって、ただ何となく眺めていると「あるな~」っていうことがわかる。 この「意識に入ってくるけれど意志的に見ようとすると見えない」感覚はセッションしていても出てくるのですが、「ただ何となく眺める」には身体の落ち着きが必要になってくる感じがしています。身体が興奮した状態では交感神経優位になって視野は自動的に一点集中の凝視モードになってしまう。そうすると「ふんわりと眺める」ということができなくなって見えなくなってしまう。 この相反する感じも、感覚の面白いところだなあと思います。

遊び

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そこに発見があればすべて稽古にすることができるし、逆に練習をしても何の発見もなければそれは稽古にはならない。そういうことを古武術を通じて山口潤先生に教わりました。 家事育児や仕事でなかなか身体感覚についての稽古の時間がとれなかった私にはそれは切実なことで、「だったらできるだけ何かをやる時には興味をもって何かしら発見ができるような開いた状態で行おう」という風にやってきました。 興味があって開いている状態というのは「遊んでいる」感覚に近い。 それか切り抜けなければいけないピンチ。ピンチは放っておいても向こうからやってくるので、あとはどれだけ自分の生活の中にあることを楽しめるか、遊びにできるかかなと思います。 写真は昨日公園で見つけたカワセミに「気配を消して近づく」遊びをした時の戦果です。次はyieldしてみちゃおうかな。

区切る

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遠隔セッションをやっていると、そもそも全ての空間はひとつながりで、それを区切って別々のスペースにしているのはただ自分の観念でしかないのだなと思います。 本当は皆、同じ空の下であり同じ大地の上。それを概念として空想するのではなく、身体感覚として感じられるかどうか。

ゆらぎ

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  ちょうどいいところにいられる時って大体自分でもそれと気が付かずにそこにいて、何かやろうと思うとそこからずれる、みたいなところがあるなあと思います。 でも、やっぱり「あれやりたい」「これやりたい」と思ってしまうし、ちょうどいいところにいるために自分を固定するということを始めてしまうと「固定する行為」によってずれていくみたいな感じもします。 走ったり、休んだり。「ちょうどいい」に居続ける事にこだわらずに、ゆらぎながらやってみてもいいのかもしれないな、という気がしています。

秋の気配

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都会はうるさくて田舎は静かって思うけれど、たまにひとりで家の周りを散歩していると高原にいるような感じがする時があります。 煩いのは外の環境じゃなくて自分の内側で、自分の内側 が静かになれば都会も高原もどちらも同じようなトーンの静けさが漂う。 鳥の声、風の匂い。 またひとつ秋が近づいた気配がする朝。

遠隔セッションご感想

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  以前はzoomで繋いでオンラインセッションを行っていましたが、最近は一旦電話で繋いでから切って行う形の遠隔セッションを探求しています。 先日遠方に住む友人に頂いたご感想をこちらに載せる許可を得たので転載します。 布団に横になってお子さんを寝かしつけている状況で受けて頂いています。 対面セッションでは私は静かで身体に集中した感じのセッションをする事が多いのですが、遠隔セッションを始めてみて思ったよりもシチュエーションの自由度があるのかな?と感じています。所要時間は15〜30分程度で行っています。ご興味ある方はお問い合わせ下さい。 『電話中は、最初に左の鼻、次に右の鼻も通って、その分喉のあたりに詰まりを感じて咳をしたくなる感覚があったんだ。 しばらくすると肺までしっかり呼吸が通る感じになり、そしたら身体全体の質感がフワっとなってきたよ。 カチカチに真空パックされたスポンジが開封すると膨らむ感じ? 細胞1つ1つがそんな風にふんわり膨らんで柔らかくなった感じだったよ〜。 もう一つ意外だったのが、私は一人で静かな場所でゆっくり受けたいと思っていたのだけど、子供に手を繋がれたり話しかけられたりしても大丈夫だった事。 集中はできなかったけど、特に問題なくてビックリでした笑 思い込みってあるんだなぁという発見でした! 電話を切ってからは下半身に変化が出てきて、特に両脚全体がツルが一気に伸びるような(トトロで一気に植物が成長するみたいな)感じが出てきて、初めての感覚だったから面白かったよ〜😆 少しずつ感覚が落ち着いて来てまだ変化が起きるのか楽しもうと思ってたら、子供がぶつかってきて終わってしまった😂 けど、最近電車で座る時に膝が開き気味だったのが、開かなくなったのでうまく収まったみたい。 電話でもあれだけ変化が起きるってすごいな〜ビックリだよ!! 今日も下半身はしっかりまとまってる感あるよ。骨盤も収まったのかなぁ? ちなみに、昨日の朝は筋肉痛までいかないけど脚に何か変化が起きた感覚は残ってたよ。一部の筋肉でなく全体的に使った感?』

ひとやすみ

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  昨日は1日、部屋で雲が流れて行くのを眺めたり、うつらうつらしたりとのんびり過ごしました。 「毎日ブログ更新してみよう」と目標立てて書いてみていたのですが、「書くぞ」って意識にシフトし過ぎちゃうと無意識に世界を査定しはじめてしまって窮屈になるなあと感じたので、ちょっとひとやすみ。 目標を定めてやっていく事も必要だとは思うのですが、自分自身に寛げる状態を維持する事を最優先でやってみたらどんな風になるのかなあと、ボディーワーカーとしての自分の成長という視点から観察してみています。 自分自身に寛いでいる状態、心理的安全性がある事は成長には欠かせませんが、チャレンジも必要で、じゃあどのくらいの割合で、あるいはどんな基準でそれを割り振るかということを探ってみるのも面白いなあと思います。 今日も空が青くて風が心地よいですね。 みなさま良い1日を。

感性を育てる

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ずっと自分の一番の興味は身体感覚にあったので、感覚を開いていくということについてある程度方針を立てて自分の感性を育ててきました。 その方針のひとつは、自分の感性に耐えうるだけの身体を育てること。 耐えかねて感覚を閉ざしていた時期が長かったし、基本的に臆病な性格なので、自分は開いたとしてもその感覚に耐えられなければまたすぐに閉ざしてしまうか、あるいはそもそも感じることにリスクがあるならば開くことができないだろうと思っていました。 15年近く前、まだパントマイムを始めたばかりのころにそう思ったので、感覚を楽しみながら自分の身体の機能をある程度高めて強くしておくこと、それから多くの感覚を拾ってもパニックにならないようにキャパを広げるようなことをしてみる(武術をやってみたりコンタクトインプロや舞踏のWSに参加してみたり、苦手な場面でも感覚を使えるように少しづつトライしてみること)ようなことをコツコツやって、少しづつ感じられる範囲を増やしてきました。 最近はyieldで安全安心な感覚をそだてることも感覚を開いていくことに役に立っていると感じます。 何かの技術を育てることとは別に、自分の感性そのものを育てること、その感性の上手な使い方を模索してみることも、人が自分の個性を活かして豊かな人生を歩んでいくためのヒントになるのではないでしょうか。

筋トレ

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肚感覚を養うWSでトレーニング法を教えて頂いたので、毎日ちょこちょこそれをやってみています。 感覚感じながらゆっくり大腰筋含むインナーマッスルを動かす筋トレ(筋トレは主眼にせず、感じる方を大切にしてやる感じ)なのですが、重心が下がるとともに以前より特に対人面で落ち着いて物事に当たれるようになってきたと感じます。 自分の身体がどんな風に動いているかを観察するのにも役に立つし、筋トレもいいものだなあと思いました。 身体の使い方的には偏った使い方ではある気がするから、やり過ぎないことやバランス整える事には気をつけないとですが、それも含めて稽古かな。

キャッチ&リリース。

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ちいさないきものをつかまえるときは 息を殺してそっと近づいて、さっと、でも潰したりしないように、そっと、つかまえる。 そしてそっと眺めたり触れたりして楽しんだら放してやる。 感覚をつかまえるときも、おんなじなんじゃないかな。 キャッチ&リリース。

永遠

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自然って美しくてずっと眺めていたいような気持ちになるけれど 日が落ちて山肌を冷たい風が滑り降りてきて 潮が満ちて足元を濡らして ずっとここにいるわけにはいかないと知らせてくれるからいいな。 永遠というものはいまこの一瞬に完結する風景の中にだけ存在するのだとそっと教えてくれるから好きだ。 永遠というのは時間の事じゃなく、今この瞬間の完全性を現す言葉なんだなあと思う。

身を固める

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自分の身体感覚をまるっと無視するところから15年くらいかけて感覚を育ててきたのですが、過去の自分と比べたら段違いに成長しているのは理解しているのに、何故か自分は感覚が鈍いのじゃないかという自信のなさがずっとありました。 最近「もしかして自分はまだ身体を固めて止めているのかも?それが感覚が行き届かない一因になっているのかも?」と感じたことがあって、試しに施術を受けるときに身を固めるというのをやめてみました。そうしたら、身体の感覚が一気に拾えるようになって、感覚で見える風景の画素数が上がった感じがしています。 感覚を感じているのに「気のせいなんじゃないか」と信じられなくて、それが自信のなさにも繋がっていたのですが、今思えば私にとって自分を疑うという姿勢は身を固めるということでもあったのだなと思ったできごとでした。 日常の中では難しくても安全が確保されているセッションの中であればトライできる、という事もあるんだなあと思います。私にとってはセッションはパントマイムや古武術の稽古と変わらず身体と繋がり直して変化していくための場でもあるので、自分が提供するセッションもそのように活用して頂けたらいいなという気持ちがあります。 まだまだ伸びしろはあると思うので、この感じを更に育てていきたいな。

万華鏡

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友人にお手製の万華鏡をのぞかせてもらったことがあります。 きらきらと次々に開いていく華がとても美しかった。 次から次へと展開していく華。開いたら閉じて循環していくものかと思っていたけれど、開き続けるもの、展開し続けるものもあるのだなあ。 それぞれの瞬間の美しさに、鮮烈さというのは変化の中にこそあるものなのだと思いました。

適応

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  コロナに対するリスク評価だったりワクチンに対する考え方って、親しくしている人や家族でも人によって全然違う。 でも、どうせならこの機会を活かせればいいなと思っています。 だって、そういうのが違ったりズレていたとしてもなんとかその違いを認め合わないと一緒にいられないわけで、どうやって着地点見つけてやっていこうか探り合いながらやっていくのって結構凄いチャレンジだ。 自分の考え方や身の処し方も毎回バージョンアップを余儀なくされて、これはこれでよき稽古。 日々新しいバランスを探して適応していくことが、生き物としての健やかさにつながると思うから。

研ぎ澄まされたリラックス

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昨日は先輩セラピストさんのところにSTRという施術を受けにいきました。 腕を動かして頂いている時に精度の高い「ゆだねる」「身を任せる」感覚が出てきて少し驚きました。 「身を委ねる」にもいくつか質があると思うのですが、昨日感じたのは身体との繋がりを切ってだらんとするという「身を任せる」ではなく、動かされている感覚に集中して、自分の意思で極力自分のモードをアウトプットを捨ててインプットに寄せていくような感じでした。研ぎ澄まされたリラックス、みたいな感覚。対人関係の中でこの感覚を体験できた事は、もしかしたら自分にとって転機になり得るかもなと感じます。 yieldもそうですが、施術というのは不調を整えるだけでなく学習として使えるものもあるので、有効活用してもらえたらいいなあと思います。 良い経験をさせて頂いて感謝です。 http://masakazushibata.com/