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9月, 2021の投稿を表示しています

孤独

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孤独と寂しいは違うような気がします。 孤独は世界が満たされて自分しかいない感じがする。永遠とか完全とかの感覚に近い。 寂しいは欠けている。欠けている空間を他の何かで満たしたいという欲求。世界と自分とが別れている感じ。 深まる秋に孤独と寂しさそれぞれの味わいを楽しむのは、季節の幸を頂くことに似ているのかもしれません。 なんだか秋刀魚が食べたくなってきちゃったなあ。

10/9体験セッションを提供します

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10月9日UNDO-空につながる静かな土曜日-身体の奥の安らかさに触れる- で体験yieldを提供させていただきます。 今回も、ダムタイプはじめ身体や空間とのコラボレーションで活躍されている山中透さんの構成した、身体に溶け込むようなオリジナルサウンドとのコラボレーションです。 yieldの他にも、山中暁子さんの静かで瞑想的なバイオダイナミクス、バイオダイナミクスやSTRをベースにした田中彰さんの大丈夫な感覚に繋がるオリジナルセッションをお受けいただけます。 日常を離れた空間の中でご自身の身体に寛ぐ感覚を体験しにいらしてください。 ☆日時:10月9日土曜日 10時から19時(最終受付18時) ☆開催場所: 場所:atelier flow バルコニー 世田谷区奥沢1-9-2 ジョイフル田園調布301 ☆最寄駅 目黒線奥沢駅徒歩7分 奥沢小隣 ☆セッション料(お飲み物つき): 山中、田中 5500円 馬渕 4500円 当日受付にてお支払いください。 ※事前予約制です。ご予約時にご希望の時間とセラピストをお知らせください。 申込・問:atelier flow やまなか info@atelierflow-bio.com 090-9205-7766 ☆担当セラピスト  山中暁子 バイオダイナミクスオステオパシー https://atelierflow-bio.com/   田中彰 バイオダイナミクス STRその他オリジナルプログラム https://seitai-7652.business.site/ 馬渕海 Yielding enbodiment https://www.resonanceblue.com/?fbclid=IwAR1DA_rxXJKlDPwF9vnIvbD6yDNcZfWaztuu4dlfAUO0qN3XqZosDcYc0BI   10月9日UNDO-空につながる静かな土曜日

自信

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怖がりで自信がなかった私は(今も自信にあふれているわけではないけれど)自分の身体や感覚を信じることを通じて自信を育んできたんだろうなあと思います。 「自分を信じる」というけれど、「自分」というものが存在しているというよりも「感覚」があるだけなんじゃないかなあ。 ただ感じてみる。その感覚が縁取るものが「自分」。 壺の本質は陶器に囲まれた空間にあるというけれど、「自分」というのはその空間みたいなもの。 「寒くなってくると人恋しく感じる。」 「お天気のいい日に柔らかい風に包まれて昼寝をすると満たされて幸せな気持ちになる。」 それが一般的に見てネガティブであれポジティブであれ奇妙であれ、そのように感じたのだということを大切にすること。親友の話を聴くときみたいに。 感覚を使って身体を操作するだけでなく、そのベースに自分の身体を信頼して寛いでいられる感覚があるということ。 そういう感覚が根付くにつれ「私は誰のためでもなく、私のために生きてもいいんだ」ということが腑に落ちるようになりました。自分のために生きることと、誰かの役に立てるということ、周囲と調和して生きることは矛盾しない。 むしろ深い調和というのは自分への信頼なくして成立しないのだと思います。

感情と姿勢

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  「いかり肩」なんて言葉があるけれど「感情と身体」もう少し詳しくいえば「感情と姿勢」は強く結びついています。 外から見ての印象でも「何となく怖いな」とか「何となくほっとするな」と、私たちは日常的にそれを判断していると思うのですが、自分の身体については「そういう性格」として片づけてしまって、それがベースではないかもしれない可能性についてはあまり考えないことが多いのではないでしょうか。 私自身かなり長いこと自分は凄く怖がりなのだと思ってきました。パントマイムの稽古をしていても、「喜び」や「怒り」などの感情表現は難しいのに対して「恐怖」や「不安」の感情表現はすんなりできる。 今パントマイムの感情表現をやってみようとすると「喜び」「希望」はやりやすくて「恐れ」「不安」は空々しくなってしまってなかなかうまく表現できません。 稽古や施術を受けることを通じて肩が下がったり手足や首を胴体に引き込むような(亀が甲羅に引っ込むように)癖が取れると同時に、防衛的な構えが常態化していたのが自分なりのニュートラルに近づいたのだと思います。 そうなった今はむしろ、自分は持っている敏感さの割にはかなり冒険好きな性格なんじゃないかと感じます。 姿勢というのは神経系の状態を反映しているだけではなく、その姿勢を取っていることで特定の感情を引き起こしやすくなるというパターンを構成していて、そこからうまく抜けられると全く違う風景が見えてきます。 yieldは常態化した防衛モードを解いてニュートラルに近づけることに力を発揮するボディーワークです。どうぞ一度体験してみてください。

テーマからはずれないこと

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世の中には様々な文脈があって、その中には私が強く心を惹かれるものもたくさんあります。 でも、与えられた時間の中で生きることができるテーマは限られている。 自分が生きられるのは自分のテーマだけなのだということを見失わないように。 自分が生きられない他者のテーマを貶めたり、ひきずられて自分のテーマを見逃してしまったりしないように。 身体が自分のくつろぎの場所になってきたら、そういうことが随分と楽にできるようになりました。

所属の感覚

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  yieldでは「安全・安心」な間合いを使って身体に深いリラックスの状態を誘導しますが、間合いというのは武術でも扱われるもの。 「敵対の間合い」「ものの授受の間合い」 関係性によって適する間合いが違う。 そしてそれは、物理的な距離や配置であるだけではなく、精神的な距離であり関係性でもある。 サバイバルのWS に参加したとき、夜焚き火を囲んでいるときにじんわりと感じた不思議な感覚。ゆっくりと記憶を手のひらで転がして眺めていたらそれが「所属」の感覚だったことに気が付きました。 今までは何となく「所属」というのを朝礼スタイル(校長先生が台の上にのってお話をして、生徒たちは四角く並んでそれを聞く)で認識していたのであんまりポジディブなイメージを持てなかったのだけれど、焚き火を囲む配置で感じた「所属」はもっとフラットで自由な感じがしました。そして安心する。 またひとつ、お気に入りの間合いができました。

火おこし

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サバイバルキャンプ WAN2 で、きりもみ式火おこしをやりました。 校長の川口さんの動きをよく見て再現、みたいな感じでやってみたのですが、やってみて気が付いたポイントはこんな感じ。 ①火きり棒の回転数を上げて摩擦を増やすために、できるだけ手のひらを長く使いたい。でも手根や指先では火きり棒の操作の難易度が上がるためついつい手のひらだけで回転させがち。 ②手のひらだけで回転させると回転数を稼げないので、その分早く手を動かすことで代償しがち。 ③②をやってると身体に力みが入って手のひらが反りがち。 ④③の状態になると更に手根や指先での操作の難易度が上がる。 以下力尽きるまでループ。 というわけで、火おこしについても無駄な力みなくいかに効率的に作用させたいポイントに力を伝えるかが大事なんだなあと思いました。あと古武術と同じく、やってる感がある(マッハで回してる)ときは無駄なことしてるとき。 私は最初は力まないよう気を付けてやってるんだけど、煙が出てくると焦りからつい力が入って上記のループに入るという具合で、火がつけられませんでした。 これはメンタル・フィジカル共によい稽古になるなあ。次回こそは!

印象派

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 サバイバルキャンプ WAN2 では森の中で感覚瞑想をしました。 そのとき、ほんの短い時間だけ面白い光景を見ました。 緑の点が流れてる感じ。「映画マトリックスのあの文字列みたいだな」と思ったらすぐにその風景が解体していつもの風景に戻ってきてしまったけれど。 私たちが普段見ている風景は既に経験から解釈され意味づけがされたもの。 そこから「あれは葉っぱ」「あれは空」「あれは土」という判断を外して、「あれとあれは別々のもの」という区切りを外して、「こっちが手前でこっちが奥」という奥行きもはずして…全部外したら目にしているものはうごめく光のパターンなんだなあ。 きっと何かのはずみであのとき解釈や意味づけが抜け落ちちゃったのだろうな。森の力がそれを助けてくれたのだと思う。そして頭が働いたから通常モードに戻った。 印象派の人たちの絵 ってこんな感じのこと言いたかったのかな?と初めて思ったのでした。 人間の知覚や認識って面白いな。

9/25 山口潤先生の古武術稽古会のお知らせ

風が硬質な感じになってきていよいよ秋。会場の古民家住宅、母屋の雰囲気にぴったりな季節になりました。  いよいよ今週末!山口潤先生をお招きして川崎市梶ヶ谷で古武術の稽古会を行います。 常識にとらわれず自分の身体感覚を見つめること。 身体感覚は誰でも自由に感じて良いのだということ。 身体との繋がり方の1番根っこにあるものを、武術の手合わせを通じて感じることができる稽古会です。 今回のテーマは「光」とこのこと。観念ではなく、身体感覚で、手合わせをしていただきながらみんなで研究を深めていく場です。 ご縁を感じられた方、お待ちしております。 詳細・申し込み

サバイバルキャンプ

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  ナイフさえも持たずに行うフルサバイバルのスキルを学ぶワークショップ、 WAN2 に参加してきました。 ネイティブアメリカンの「自然の教え」を基礎にしたWSで、石器を作ったり石器で火おこし道具作りの練習をしたりきりもみ式火おこしをしてみたり、とても楽しかったです。 ワークの一つで森で感覚瞑想というものをしたのですが、yieldの感覚ととても近いように感じました。 公園とか牧場の動物にyieldすると近づきやすくなったり眠そうにしたりするなあと思っていましたが、それもこのWSで学んだネイティブアメリカンの狩りなどで使われるベースラインという感覚によく似ている(私のyieldは人慣れした生き物はいけることがあっても、そうでない野生動物にはまだ入る気配がないですが…)。 ただ、似ているだけに感覚瞑想やベースラインに繋がろうとしたときにyieldのモードに入ってしまって、WSでのテーマの感覚に繋がりそびれてしまっているかもという可能性も感じています。そうだったらもったいないので、経験を重ねて何度もそれを見に行ってみたいなあ。 面白いなあと思うのはyieldは「安全・安心」の感覚を扱うけれど、WANではサバイバル技術という特性上、その感覚をもって危機への対処へとつなげていくということです。「生きる」ということはどういうことだったのか、肌で感じられる幸せな時間でした。 WILD AND NATIVE 感覚瞑想をしてみよう

遠隔セッションご感想③

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「2人いっぺんに遠隔yieldって受けられますか?」というご相談をいただき、原理的にはできそうだけどなあ、と友人にお願いして実験してみました。 いつものように電話でつないでから切って、乳児のお子さんとお母さんに遠隔セッションをさせていただきました。お子さんに授乳しながら受けていただいて、寝かしつけサポートみたいな感じでのセッションです。 ご感想頂いたので許可いただいて載せておきます。  『海ちゃん 昨晩はありがとうございました。 昨日、わたし実は少し具合が悪いというか、頭痛がして、眠くてだるい感じを1日引きずってた、という状態でした。 授乳に入ってすぐ、やっぱり寝てしまい😅 授乳中に寝てしまうのは最近はよくあって、少し長めに寝入ってしまい、30分とか、1時間近くなることもあって、気がつくと首が前に落ちていて、首や肩が痛くて身体が固まっているような、しんどい状態で目が覚めます。 昨日は何故か上手に昼寝ができたときみたいに、10分ですっきり目が覚め、頭痛が少し治ったのと、気分的に疲れが楽になった感じがありました。目がよく見えるようになったというか。(朝一だと目がよく見えるのってわかりますか?あんなイメージなのですが) その後の夜間の授乳で、アラームかけていたときも比較的すっきり起きることができて、不思議な感じでした。 あと娘のことですが、授乳中に寝落ちはいつも通りなのですが、昨日は夜間の夜泣きがなかったんです。いつもは3〜4時間ごとにアラームかけて起きることにしてるけど、その前に娘の夜泣きで起こされてました。または起きなくても非常に浅い眠りになって、激しく寝返りや寝ながら座ったり、バタバタうるさくなるのですが、(それでそろそろ飲ませておくか…となる)昨日は熟睡時間がとても長かったので、久々に私の方が先にアラームで起きて、起きたものの授乳するか、それともこのまま夜間断乳チャレンジしちゃうかちょっと考えたくらい、娘はよく寝てました。 自分のことだけだったら、海ちゃんと直前にほんの少しでも話して笑ったりして、気分があがったからって部分もありうるけど(ごめんなさい🙏、でも自分でできないことって不思議でしょうがないんです!)、娘のことは海ちゃんのおかげ以外にありえないだろうなぁと思ったので改めて物理的な距離ってなんなんだろう、、と。海ちゃん、ぽん、と向こうへ行ってしま...

三鷹天命反転住宅

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荒川修作という建築家が好きです。「死なないための建築」というコンセプトで建物を作られていて、何を言ってるのかさっぱりわからないのですがとても興味がある。 その荒川さんの作品に 三鷹天命反転住宅 というのがあります。床が凸凹で、球体の部屋がついていたりする不思議なマンションです。 本を読んでもいっこうにわからないので、1週間そこにショートステイしてみたことがあります。 4日目くらいから自分の身体が変化してきたことに気が付きました。心と身体が静かになって、感覚が鋭敏になる。自分の軸がはっきりしてコンディションが良くなると感じました。 色々考えましたが、恐らくあの住宅は身体を強烈に纏めてしまうのじゃないかと思っています。身体が纏まるから心も纏まる。今、ここに。雑念が入らない。 なぜ身体が纏まるかというと、多分、あそこにいると常にバランスを崩し、新しいバランスを探すという行為をせざるをえないからなのじゃないかという気がします。 環境によって身体も心も大きく変化するのだということ。一見快適な環境が快適な身体を作るとは限らないということ。とても面白い場所です。

わかる

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昔数学者の森田真生さんの「数学の演奏会」という講演を聞きに行ったとき、森田さんが「わかる」ということについて面白いことをおっしゃっていました。 「わかる」とは何かと考えると、2種類ある。ひとつは「自己と対象を切り離し、二項対立にし、客観的に観察分析してわかる」。もうひとつは「対象を真似て同一化することでわかる」。 そして、西洋の数学や科学は、ひとつめの「わかる」なのだと。 身体での「わかる」はふたつめの「わかる」だなあと思います。 身体感覚を探求していくとどうしても科学からはみ出してしまう部分が出てくると感じますが、それは必然なのかもしれません。

緊張と運動

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古武術の稽古で兄弟子に手合わせして頂いたとき、こんなことを教えていただきました。 「力を入れるという事には、緊張と運動がある。ほとんどの人は緊張の方を力を入れることだと思っているが、それは効率的な身体の使い方ではない。効率的な力の使い方である運動では力が通り抜けていくので力を入れている感覚がなく、手ごたえがないと感じる。武術では緊張と運動を区別する必要がある。」 身体の使い方だけではなく人生もそうかもしれない、と思う時があります。 きちんと流れに乗れているときは頑張っている感じがしない。すっと、手ごたえがないくらいの感じで進んでしまう。 手ごたえの無さに任せていられること。駆られずに寛いでいられること。流れに乗るには案外そんな事が大切だったりするのかもしれません。 そして、身体は感覚を通じてそれを教えてくれるんですよね。

経験

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身体の不調が出てきたとき、不調の原因になっている行動を探ったり見直すことなく外からの力で整えようと思うのか、自分の行動を見直してみようと思うかは「自分の身体をどのようなものとして扱うのか」という事に深く関っているように思います。 身体は所有する機械のようなものなのか?   それとも支え合って生きていくパートナーなのか? あるいは色々な事を導いたり教えたりしてくれるメンターなのか? 化学療法をうけているときに感じた身体の頼もしさについて思いだすと、病気や怪我が自分にとってどのような経験になるかは身体との関係性によってずいぶん違ってくるんじゃないかなあという気がします。

遠隔セッションのご感想②

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zoomで一旦空間をつないでから切ってセッションを行う遠隔セッションのご感想をいただきました。  空間をつなぐのはお電話でもよく、気軽に受けていただけるので(すっぴんやパジャマでも)どうぞご活用ください。なお、こちらのセッションはスケジュールが合えば21時頃までお受けします。  『馬渕さん セッションありがとうございました。  始めてから空間の質感が変わり、その空間に自分の身体の親和性が高まるにつれて、身体に少しずつ動きが出てきました。  しばらく静かに横になっていたのですが、そのうちに身体の動きがゆっくりと大きくなっていき、床の上をごろごろと舞うように動いていました。  その動きが落ち着いたところで少し寝ていて、起きたところです。  内側のプロセスはまだ続いている感じがしているので、このまましばらく見守ろうと思います。 明日の朝の体感がずいぶん違うんじゃないかなという予感があり楽しみです。  空間の質感が変わり、そこに感じたのは馬渕さんの持つ風通しの良さのような気持ち良さで、とても静かで満たされた時間でした。 ありがとうございました』

構え

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  マッサージなどで身体を整えてもしばらくすると元に戻ってしまったという経験があります。 それは物質的な滞りが解消されても身体の使い方の癖が抜けなかったからなのではないかと思っています。 身体の使い方の癖というのは構えの癖。世界と向き合う時の姿勢なのかもしれません。心構え、認知の仕方ともいえる。 自ずと自分の心や世界の見え方が変化していくような身体の変化。そのような変化を促すセッションができるよう、日々探求しています。

知恵の輪

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  ぴこーん!ひらめいた(*'ω'*) 昨日広沢先生に教わった脱力でしゃがむ動作をスラックラインの上でやったらしゃがめるのでは?? 早速やってみました。 できた!動きの質は置いといて、「しゃがんで立ち上がる」という動作はできる。 そして、これを練習してみて気が付いたのですが、私はラインの上で脚を踏ん張っているときがあって、これとバランスを崩すことがリンクして起きている。しゃがむためにはラインの上で立ち止まる必要があるのですが、このときに特に踏ん張っている。 試してみたら歩く時も止まる時もラインの上に足を置いていくような感覚の方がうまくいきやすいみたいです。 こうやって感覚をたどる遊びはまるで知恵の輪を解くみたいでとっても楽しい。

佇まい

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  八光流柔術豊和会を主宰されていて、脱力トレーニング指導の専門家の 広沢成山 先生のところに稽古をつけていただきに行ってきました。 腕をつかまれたときに、 腕はそのままに胸を脱力すると「やられてしまっている感」みたいなものがなくなるのが面白かったです。 身体は頭が「怖い」と認識するだいぶ前に起こり得ることに対してリスク評価をしている。そして身体が「リスクがある」と認識したとき無意識に身構えているのだなあ。 その身構えは生き物として必要なものではあるのだけれど、相手の技がかかりやすくなってしまうという欠点もあるみたい。 広沢先生の崩しは軽くて柔らかくて、佇まいそのままだなあと感じました。何か重たいもの、暗いものが感じられない。 人に振り回されるとか人を振り回してしまうとかいうのは、自分の中にある重たいものや暗いものがあるから起きることなのかもしれないなあと思ったりしました。 生き方と身体が一致されている方は佇まいから受け取るものにも学ばせていただくものがあるように思います。 学びの多い稽古をさせていただいて、感謝です。

感覚としての安心・安全

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  「安心・安全」という言葉を本当に色々な場面で目にします。 でも、あんなに連呼されるのは内的な「安心・安全」の感覚が失われているからなんじゃないかなあって思う時があります。 外の世界が「安心・安全」だから「安心・安全」を感じるのか、それとも「安心・安全」な感覚があるから「安心・安全」な風景が立ち上がってくるのか。 卵が先か鶏が先かという感じで循環的関係になっているのだろうけれど、私の目には、内的な「安心・安全」の感覚が欠けているのを外的に「安心・安全」な環境で補おうとしているように見える。 yieldでは内的感覚としての「安心・安全」を扱いますが、そこからどんな風景が立ち上がってくるのか。眺めてみてほしいなあと思うのです。

至福

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ネイティブアメリカンの人たちの言葉に「今日は死ぬのにもってこいの日だ」っていうのがあるらしいのだけれど、その気持ちわかる気がしちゃう。 夕暮れの海や空を眺めていると、このまま美しい風景にとけてなくなってしまえたらいいのになって思ったりするときがあるから。 もしかしたらこういう感覚のことを人は「至福」と呼んだりするのかもしれないなあ。

縦軸の自由さ

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揺らぎの中でのバランスの感覚を確かめたくてスラックラインをやりに行ってきました。 今回は前回見つけた「揺らぎの中でのバランスの感覚」にフォーカスしながら少し動きの方を変えて楽しみました。 揺らぎの感覚を大きく出すために、歩きながらラインの上でぽよんぽよんはずんでみる。はずむときってなんとなく片足にのってる状態になる。スラックラインの一番最初の練習は「片足で立てるようにする」だとジムの壁のポスターに書いてあったけど、こういうことかー!と納得しました。片足できちんと立てると、ラインの上ではずむことがしやすくなるんだろうな。 片足ではずんで、そのはずみでもう片方の足を前に出す。前はラインをできるだけゆらさないように歩いていたので身体のどこかを緊張させていたと思うのだけれど、揺れを味方につけられるようになったら身体の位置を固定させる必要が一気に減りました。一緒にぽよんぽよん揺れてしまえばいいから。 なるほど、だから海で見つけた「ゆだねる」感覚に似てるなって思ったのか。 縦軸の自由さが出てきたらとっても楽しくなってきて、気がついたら2時間。身体に集中して過ごす時間は楽しい。

空を広げる

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化学療法で調子がすぐれなかったころ、芝生の上で裸足で歩き回ったり、胸が開くように身体を動かしたりしたら少しばかり空が広くなりました。 風景って何もしなくても身体や気持ちを変えるトリガーになってくれるけど、美しい風景に共鳴してくれるような身体に整えたり、自分でそこに意識を向けてチューニングするようにしてみるとより心地よく過ごせるような気がします。

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人間は生き物だから常に揺らいでいて、良い状態で固定することはそれはそれで不自然なのだろうなあと思います。 良い状態に固定することよりも、自分にとって快適な状態を志向しながら揺らぐような回路を自分の中に構築していくと、揺らぎながら良い方に変化していくことができるのかなと思ったりします。 そして、揺らぐことを自分に許すと案外に変わらないものがあることにも気がついたりして、そういうものが自分にとっての軸になっているんだろうなあ。

パントマイムの稽古

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  久しぶりにJIDAIさんのパントマイムの稽古に。 最初は見よう見まねで動いてみて、その中から指定された感覚を探していく感じ。 ひとつの動きの中にはいろんなニュアンスの種があって、それをうまく見つけられたら動きながらそのニュアンスを造形していく。 今回は「ボールを持ち上げる」をやったのだけれど、途中から「群衆に向かって演説をする」みたいなニュアンスがでてきて、それをJIDAIさんは「空間に溶けていく」というような表現をされていたのですが「空間を広げていく」みたいなニュアンスのことをおっしゃっているのだろうなと思いました(自分の中では広い空間に群衆がいて、そこに向かって働きかけているような感じに感じた)。 動きの中から感覚をみつけたら、その感覚から出てくるイメージを具体的にしていく。どんなイメージにフォーカスしながら動くかで動きが変わって、表現されるものが変わる。何かのゴールを決めて動くのではなくて、身体を動かしながらイメージをクリアにしていくマイムの稽古は粘土遊びみたいな、彫刻みたいな面白さがあります。 こうやって遊びながら身体と身体感覚の連携を高めていくと身体からイメージを読み取れることが増えてきて面白いです。

ゆらぎの中でのバランス

スラックラインという、弾性のあるテープの上を歩く遊びが好きでたまにやります。 久しぶりにやったらびよんびよんとラインが上下に揺れる中でのバランスや安定の感覚がして、「あ、私今までバランスをもっと静止に近いものとして捉えていたんだ!」とびっくりしました。 ラインを揺らさないように渡るのではなく、ラインの揺れを楽しみながらバランスを探していく感覚が、波に身体を委ねて海に遊んでもらった時の感覚に似ていて楽しくなりました。 ここに繋がるのかあ! ちなみに動画は少し前にやっていた、静止の中でのバランスの感覚でやっていた時のもの。揺らぎの中のバランスだとどんな動きしてるのか、撮影して見てみたい。

身体という自然

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時々、身体って一番身近にある自然なんだなと感じます。 学生時代登山をしていて、合宿で北アルプスや八ヶ岳などにテントを担いで登っていました。 山の朝は早くて、2時起床、3時朝食、4時出発。朝食や出発の準備にテントから出ると、満天の星と天の川。やがて薄明がはじまって、朝日に照らされた雲海を眺めながら歩き始める。 山にいるとき、自分は生かされて在るのだなあということを感じていました。自分という存在の根底は、自然とか宇宙みたいな、とても大きなシステムに支えられている。身体はその大きなシステムの一部。 だから身体に対して、上手にコントロールするだけじゃなく敬意をもって扱いたいなと思うのです。

それなりの

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  急に寒くなってお天気も悪いせいか、やたらと眠たくてすぐにウトウトしてしまいます。なんとなくじっとしていたい。しんとして、ひんやりするこの感じを味わっていたい。 充たされて幸せな感じもいいし、こんな風にどこにいてもひとりきりでいるような澄んで静かな感じもいいなと思います。 いつも同じような「いい感じ」を求めて自分をコントロールするのではなくて、ただ落ち着いていることで立ち上がってくる今の感覚の中からその時なりの「いい感じ」を探してみること。 季節の感触にそれぞれの心地よさがあるように、老いても病んでも自分の身体との関係性の中でそれなりの心地よさを見つけられるようになるとしなやかに生きてゆけるんじゃないかなと思います。

にゃんこ先生

公園に住んでる猫に触らせてもらうっていう遊びをしてるのですが、間合いや空気読み間違えると逃げちゃうか猫パンチ(教育的指導)が飛んできます。良い稽古相手…いやむしろ、先生かな?

違和感を使う

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この夏はマンサンダルという、裸足感覚を味わえるサンダルを履いてガンガン歩いて過ごしています。地面の感触がちゃんとわかるし足が解放されてる感じがとても気持ちが良いのだけれど、速足であるくと膝に負担がかかる。歩き方に問題があるんだろうな~と思いつつうまく見つけられないまま歩いていたら膝にダメージが蓄積してきました。 セッションうけた時に田畑さんから「膝がうまく使えていないので、伸展しすぎないように少し曲げた状態で歩くとよい」とヒントをいただいて、膝を曲げた状態での歩きってどんな感じだったっけ…と考えてみたら、お能や狂言の歩き方がそんな感じだなと思いました。 帰り道はお能歩きをしながらいい感じの感覚を探してみたのですが、自転車をこぐみたいにちょっと脚を回転させるような感覚で歩くと膝がふんわりするみたい。そしてこの歩き方をするといつもより内転筋が使えてるような感じがします。まだ腕や首のポジションが定まらないので、この方向でしばらく探してみようと思いました。 早歩きをしようとすると歩幅を広くしたくなって、足をできるだけ遠くにつこうとする。そうすると膝を伸ばしたまま(脚をまっすぐにして)勢いよく振り出してから接地することになって、衝撃を膝で受けてしまっていたんだろうな。 歩くということは誰でも毎日やってる基本動作だけれど、とりあえずできちゃうからこそ稽古がしづらい。違和感や痛みをうまく使って動きの質を高めていきたいものです。