感覚としての安心・安全

 


「安心・安全」という言葉を本当に色々な場面で目にします。

でも、あんなに連呼されるのは内的な「安心・安全」の感覚が失われているからなんじゃないかなあって思う時があります。

外の世界が「安心・安全」だから「安心・安全」を感じるのか、それとも「安心・安全」な感覚があるから「安心・安全」な風景が立ち上がってくるのか。

卵が先か鶏が先かという感じで循環的関係になっているのだろうけれど、私の目には、内的な「安心・安全」の感覚が欠けているのを外的に「安心・安全」な環境で補おうとしているように見える。

yieldでは内的感覚としての「安心・安全」を扱いますが、そこからどんな風景が立ち上がってくるのか。眺めてみてほしいなあと思うのです。

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