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12月, 2021の投稿を表示しています

年末のご挨拶

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  今年もあと1日ですね。 ここ数年の流れの中、今年も私にとって生き方やものの感じ方が大きく変わったなあと感じた1年でした。 中でも「苦手なこと、苦しいことを我慢する事が成長につながる」という考えを少しずつ手放して、「自分の好きなこと、心地よくいられる場所で存分に自分の好奇心を広げてみる事こそが深い学びや成長につながる」ということが腑に落ちてきたことは大きかったです。 来年も自分が身体を学ぶ中で得てきたことをセッションに還元していきたいと思います。 ブログを読んでくださったみなさま、セッションをお受けくださったみなさま、学びを共にしてくださったみなさま、先生や先輩方。ご縁をいただいたことに感謝です。 年明けは6日から、水曜日と木曜日にご予約承ります。それ以外の日についてはご相談ください。 それでは皆様良いお年を!

共同体感覚

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若い頃印刷会社でアルバイトをしたことがあります。 印刷物を組みたてたり組み合わせたり、複数の工程を分担して行う作業。 呼吸を合わせて作業してみたらどうかな?と遊んでいたら、その日のパートナーのミャンマー人の方がニヤリと笑って「作業がしやすいよ」と言ってくれました。それから何となく仲良くなって色々な話をするようになりました。 呼吸を合わせると相手にもそれが伝わるんだなあ、そしてそれはお互いのコミュニケーションのベースになるのだなあということが面白かったです。 労働や作業のときに歌われる木遣歌というのがありますが、あれも呼吸を合わせるための装置なんだろうな。そして本来はこういう呼吸を合わせる感覚が共同体感覚の根底にあるものなんだろうなあという気がします。

感覚の眺め方

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  セッションの中で「感覚を眺めていてください」ということをよくお伝えします。 例えば「呼吸が浅い」「呼吸が深い」というのが見えてくるときもあるし「自分で呼吸してるなあ」「身体が呼吸している感じ」というのが見えるときもあり「苦しくはないけど呼吸をしてないような感じがする」みたいな時もあります。 それぞれリラックスの度合いとリンクしてるところがあると思いますが、それを「深いリラックスが良い」と良し悪しの方向性を決めて「評価」することはあまりしない方が良さそうです。なぜなら「評価」という構え自体もリラックスの度合いと関係しているからです。 「呼吸が浅くて苦しいから深呼吸してみよう」ってしてみてもいいし「じゃ、身体の他の部分はどうなんだろう?」って見てみてもいいし、ただ感じてみてもいいし。 「遊ぶ」「体験してみる」くらいの構えが、自分の身体と繋がり直すにはいいのかもしれません。 「どんな風に感覚を眺めるかということ自体が自分の心身の状態でもある」ということが腑に落ちると生きやすさが変わるんじゃないかと思っています。

クリスマス

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早いもので開業してもうすぐ1年が経とうとしています。 まだまだ及ばないところはたくさんあるけれど、全力で学びながら走ってきた1年でした。楽しかったなあ! かつて自分がいつも不安と恐れに引っ張られて生きていたからこそ安心というものの価値が痛いほどわかるところがあって、yieldという技法ならばそれがお伝えできるのではないかというのが自分の探求の根源にあります。 人それぞれ生まれ育ちも生きる環境も異なる中で「正しい生き方」みたいなものを定義することには無理がある。体感としての「安心」をダイレクトに伝えることができたら、人の生き方を縛ることなく人生を支えてくれるのではないか。「平和だから安心してる」じゃなくて「安心していると平和が生まれてくる」なのじゃないか。 そんなことを思いながらこれからも、 モビリティケア・シニアコンディショナーをされている石井さんが体験記に書いてくださった「平和上等!」 を世界の隅っこの方にそっと落書きしていきたいと思っています。 みなさまどうぞ良いクリスマスをお過ごしください。 (年末の締めじゃなくて、クリスマス→平和つながりです)

睡眠の計画

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  UNDOでサウンドの構成をしてくださっている、山中透さんのライブ「 睡眠の計画-toru yamanaka solo live 2021 」に行ってきました。 1日目は普通のライブスタイル。2日目はマッサージテーブルに横になりセラピストのタッチを受けながら身体の内側から曲を眺めるというスタイル。 初日のライブで感じたのは、音って空間を聴くものなのだなあということです。 空間の中に色々な質感や動きが漂っている感じ。 柔らかい、硬い、流体、固体…。 切断、叩く、流れる、拡がる、縮まる、脈打つ…。 身体みたいだなあとおもいました。 セッションの時に身体の内側のスペースで感じている事を身体の外のスペースで眺めているような。 1番最後のSleep of outer space という曲で「睡眠というのは共鳴なんだなあ」という事を思いました。でも、何との共鳴なんだろう?自分自身かもしれない。眠るということは、繭の中で自分自身と響き合う時間なのかもしれない。 そして2日目。インナーランドスケープ・ライブ。 マッサージテーブルの上で目を閉じてみたら劇場のあの独特の空間を感じてちょっとおっ!となりました。 身体の外側の空間に漂う音たちの質感に、エサレンマッサージのセラピストである百澤さんのタッチの質感や、動かされている自分の身体の骨の揺れ、筋肉の伸び、姿勢で出てくる質感が音のひとつとして調和していって、自分の身体も音楽になってゆくような感覚でした。 胸郭を少し捻るように傾けて頂くと、少し感情に近いトーンが出てきたり。 パッとリリースするようなタッチはスタッカートみたいだったり。 最後の方で波音が入った曲では身体も空間も全部海だと感じたり。 ダンスを踊る人たちはこんな風に身体全部を音楽として感じたりするのだろうかと思ったりしました。 完全なるアートとしての施術。面白かった〜!

開く

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お身体の緊張の強い方とのセッション。 yieldの空間の感じはあるけれど、なんとなく深く入っていけないような、少しどこか硬いような感じ。タッチで目を緩めてから待っていたら受けてくださっている方のお身体が緩んだのと同じタイミングで、空間がふわっと開いたような感覚がありました。 空間の認識である程度は受けてくださっている方のお身体の様子が認識できていると思っているのですが、こんな風に空間と身体の変化のリンクがはっきりと見えたのはとても面白かったです。

経験をさせる

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  「自分を変えたい」と思ったとき「あんな風に変わろう」「そのためにああして、こうして」と取り組む変え方もいいけれど、「自分に変化しそうな体験をさせてやる」というのも面白いです。 私は稽古だったりセッションだったり人に会うことでそれをしていますが、きっと自分が主体的に関われる事であればなんでも良いのだろうなあと思います。 「自分に体験をさせてやる」事の良さは、変化の方向性も大きさも自分自身でも予測がつかないという面白さ。宝探しみたいです。 今の自分を否定する成長ではなくて、変化を楽しむことが結果成長につながるような構えがあると色々な事が楽になるような気がしています。

体験記11

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バルコニーセッションをお受けくださった方が、プライベートセッションを受けに来てくださいました。 『海さん こんにちは🌞 先日は治療ありがとうございました😊 治療してから今日で3日。 今回はどんな事感じるかなぁ~と観察してました。 当日は終わってから眠くて眠くて帰りの電車の中で寝てましたよ! 翌日も眠い状態は続き相当神経がお疲れだったんだなぁと確認出来ました! それからは、穏やかさがある中にも活気があり自分らしくなって来たと思います。 前回の様な強烈に上から降りて自分と繋がって感じは今回はなく 内観するとすぐ様繋がっているのを感じました。 それは、優しい光がスッーと全身を通して安心感を与えてくれて 何か自分に焦らなくて大丈夫とでも伝えてくれてる感じ。 そのお陰か感情面、メンタルもイイ感じです! 今回もありがとうございました😊 感謝します!』

背水の陣

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  自分の身体を観察していて、メンタル的な不調と背中側の空間の感覚がなくなる事は割とリンクしているように感じています。 背中側の空間がないという事は、退却できないということ。背水の陣、追い詰められた感覚になりやすい状態なんじゃないかなあと思ったりします。 先日出てきた 丸い背中 も、背中のスペースが感じられるからこそそこに身を委ねておく感覚を持つ事ができる。そしてそれは「背中を預ける」感覚、深い信頼感とつながっていきそうだなあと思います。 身体と空間の関連性、とても面白いです。

ジャッジしない身体

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身体感覚の稽古をしていると、身体が整ってこないと感じられない(例えば、神経が行き届かなくて動かせない、動かせないから感覚が得られないという感じとか)ということがあります。 だから「神経が行き届いている」「感覚がある」ということは身体とのコンタクトという意味ではとても大切。 そんな事があるので「上達」という事を考えて物事に向き合おうとするとどうしても「もっと目当てのものを感じたい、感じなければ」という気持ちが出てきてしまいますが、微細な感覚はこの「見よう」とする意識が逆に邪魔になって見えなくなってしまうこともある。 夜空の微かな星を、なんとなく眺めれば「ある」とわかるのに、「本当にあるのだろうか?」と思いながら凝視すると見えなくなるのに似ているなあと思います。 逆説的なのだけれど、私は最近、感覚を感じられるのが「良い」「凄い」事で、感覚が意識にのぼらない事が「悪い」「ダメ」な事だというジャッジの感覚を少し手放せる体験があって、それから拾える感覚が増えた感じがしています。きっと精神的な成長というだけでなく「ジャッジせずにいられる身体になった」という事でもあるのでしょう。 短期的な変化も面白いけれど、私は時間をかけて育んだ自分の身体との信頼関係が生きることを豊かにしてくれていると感じているので、セッションを通じてそんな事もお伝えできたらいいなあと考えています。

わからない

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「わからない」を大事にするといいのだなあということを最近感じます。 15年前にパントマイムを始めた頃、私は「感じる」という事が全然わからなくて、悩んだ末に「片手を冷水で冷やし、もう片手をお湯で暖めて、手のひらを合わせたときに冷たいを感じるか温かいを感じるか」っていう事をやってみて、「これが感じるなのか。思ってたのとちょっと違うけど!」と思っていました。 15年身体感覚を探求し続けてきて、それをどう扱えばいいのかということは以前よりもずっと上手にはなったけれど、やっぱり「わかった」とは思えない。 でもきっと、「わからない」ので15年飽きもせずに「感じる」を探求し続けてこられたのだろうなあと思うし、15年かけて培ってきたものはゆっくりであっても15年分の成長をもたらしているのだなあと感じます。 セッションの中で出てくる色々な感覚もきっと無理にわからなくてもよくて、ただ経験として持っておくとある時に不意に「あ!」となったりします。わからないと思ったときは、経験が自分の中に染み込んでいって再び湧いてくるのを待つような感じで置いておいて頂くのも楽しむコツなのかもしれません。

生命のリズム

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  解剖学を教わっている先生であり、yieldの学びをご一緒させて頂いてもいる、 すずきしのぶさん のクラニオセイクラルバイオダイナミクスのセッションを受けさせていただきました。 イメージのような夢のようなものを見ていたのですが、深く潜って何か変化していく感覚を見ていて「びっくりする」みたいな感覚で浅瀬に戻る、というような事を周期的に繰り返していました。 なんだか出産の時感じた陣痛の波みたい。 生命のリズム。そのリズムに乗る事を少し怖がっている自分がいるのかもしれないと感じました。 そのリズムはやがて水のイメージと繋がっていきました。最初は水がこぼれそうな感覚に「おっとっと!」とそれを止めようとしている感じがあったけれど、最後は水が身体の表面を覆うように流れ落ちていってそれをただ見てる感じで目が覚めました。 この波に身を任せて遊べるようになったらいいなあ。 良いセッションをしていただいて感謝です。

体験記10

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yieldセッションのご感想を頂きました。 yieldではタッチを全くしないわけではありませんが、間合いを使っての場のコンディショニングに重きを置いています。 == 初めてyieldingという施術を受けました。 手技療法のひとつだと思って伺ったので、最初は?の連続でした。 クライアントに触れずに空間を見る。 受けている感覚は、頭が考えるのをやめた感じと言えばわかりやすいでしょうか。 何とも言い表せないフワッとした感覚とまわりの空気が少しずつ変わっていく感じ。 感覚を言葉で置き換えるのは難しいと改めて思いました。 セッションのあとに空間と細胞の話を聞かせていただき、まわりの空気が変わっていくのはそういうことなんだとアタマで理解できました。ありがとうございました。

つながる身体

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  「体の不調がない」というのはもちろんとても良い状態だと思うのですが、人間が動物である以上、環境に応じて感じるべき違和感や危機感というのは当然あるはずで、それが感じられずにただいつも「違和感のない身体」というのはそれはそれで生き物としては機能不全な状態なのではないかという風に思います。 空模様がどよんとしていたら傘を持って出かけた方が楽だし、それは「何だか雨が降りそうだなあ」と晴れた日とは違うどんより感を感じられるからできる予測です。 yieldで目標にしたいのは「違和感のない身体」ではなく「環境ときちんとリンクしている身体」「世界と繋がっている身体」です。

感覚を使いこなす

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私はセッションを受けたときに発見が沢山あって凄く楽しい時期と、割と静かな時期があります。 今は楽しい期なので、セッションを受ける機会を多めにしています。 「いいもの」だから「良くなる」という考え方が合う時もあるけれど、自分の心身が欲しているタイミングでぴったりくるものに出会うと「消化吸収が良い」という事もあって、私は後者を大事にしています。 そして、この、消化吸収してるときの感覚。満たされて成長していくときの感覚。 これを覚えておけば、外のものに振り回されずに自分に必要なものを選ぶ事がしやすくなると感じます。 繊細に色々な事が感じ取れるということは時に諸刃の剣になる事もあります。上手に使って自分の生きやすさにつなげていく事、そのための工夫を見つけていく事も、稽古であり楽しみのひとつです。

経験としてのセッション

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  セラピストの先輩、柴田先生に以前このブログで書いたセッションの感想について ご紹介頂きました。 私にとってセッションを受ける事は自分の身体との関係性を育てる場、稽古のようなものです。 言葉で何かのセオリーを伝えてもらうのではなく、セッションという経験から自分の中を一度通過した発見や学びが出てくるところが楽しくて好きです。 だから、自分のセッションもそんな風に、ひとつの体験として、内にあるものと繋がり直す場として使っていただけたらいいなあという気持ちがあります。 柴田先生が書いてくださったコメントを読んで、術者も受け手も「自分自身とのつながり」そのもので響きあう事もできるのかもしれないなあと感じました。 セッションの可能性について探求し続けていきたいです。ありがとうございました。

身構えを解く

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  先日セッションで出てきた 丸い背中の感覚 。その後も変化を観察しています。 長いこと右の肩甲骨下に、軽い痺れみたいな、濡れた布が貼り付いているような感覚がする時があったのですが、丸い背中の感覚があるとなくなるようでした。 でも時間が経ってきたらまた時々出てくるようになってきたので、どんな時に感じるのか観察してみると、何か考え事やあまり良くない事を思い出すと特定の身構えに入ってしまい、それに連動して痺れ感が出るようだという事が分かりました。 痺れを感じたら身構えを確認して、解く。 考えや記憶から離れる。 きっと少し解除に時間がかかるタイプの何かなのだと思うけれど、これはこれでひとつの稽古としてしばらくの間遊んでみようと思います。

生命

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  yieldしていると、自己調整のために大きな動きが出る方もいらっしゃいます。 先日ふと、その動きの印象に大野一雄さんや土方巽さんの舞踏を思い出しました。 舞踏ってたまに魂を持っていかれるかと思うような美しいものがあって、多分そのとき私が感じているのは剥き出しの生命みたいなものなんだと思う。社会化される前のそのままの生命というのは、力強く、繊細で、尊くて、美しいなあと感じます。 身体には自ら整おうとする意志があり、その動きがうまく出てこられる場を提供することがプラクティショナーの役割なのだと、受け手の方のお身体から教わり続けているように感じます。

yieldと休息

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自分自身がyieldを受けているときもそうだったし、ワークを受けてくださる方を見ていてもそうですが、yieldを初めて受けられる方は眠ってしまうことが多いように感じています。 ゆだねる動き(yield)が引き出されて身体が休息のモードに入ったとき、身体が休息を必要としている状態であれば眠りが起こるのかな、と思います。 何度かセッションを受けてyieldが身体に定着してくると短時間の休息でも疲れが取れやすく、覚醒と睡眠の状態のオンオフがはっきりしてくるような感じがしています。 「休息の質」が上がるということは、余力を使って生活を整えることにも繋がっていくので色々とメリットが大きいです。 yieldを受けられたらぜひ、休息の質の変化についても観察してみて頂けると嬉しいです。 …昨晩これを書いて朝公開しようと思っていたら今朝は寒いのもあって布団からなかなか出られなかったのでどうしようかな~と迷いました。全体の傾向であって、いつもではない、ということを申し添えておきます。

敬意

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  例えば「敬意を持つ」「大切にする」ってどういうことなのかな?ということって、頭で考えて理解するとなると結構大変だなあと思います。 でも、そのような質の「触れる」を見たり感じたりしてみれば「あ、この感じなんだ」ということがすっと入ってくる。 私はセッションの中で「敬意」と「対等という関係性の質」にこだわりたいと思っています。それはセッションという時間と空間の中だからこそ提供できるもので、日常ではなかなか難しいこともあるだろうと感じるからです。 そしてその質を、自分自身を扱う時に使ってもらえたらいいなあと思っています。

質の知覚

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  ここのところWSやセミナーなどが連続していました。 技術的な事とも繋がってくるのだけれど、学びの場で感じるのは「質」ということの大切さです。 間合いの取り方にしても触れ方にしても所作のリズムにしても「質」って大事だなあと。どんな変化が引き出されるのかを質が左右してるようなところってあるように見えるし、もっと言えば質を知覚すること自体が人を満足させるところがあるように思えます。 ミヒャエル・エンデという作家が質についてこんなことを書いています。 『私たちは、しょっちゅういろいろな物事について、これは良いとか悪いとか、あれは悪い、とか口にします。いい、悪い、というのは「質」のことですよね。それ、いったい何ですか?「質」を言葉で言い換えられますか?・・・でもそれを教えることは、できるのです。すぐれた芸術、すぐれた文学、すぐれた音楽・・・これにふれて、ふれて、ふれぬくことによって「質」の知覚が生まれます。「質」と「質」との微妙な差異を感じ分ける力も、人間のなかに目覚めさせ、みがきあげることができます。・・・』 身体感覚を感じること。身体と繋がること。そして、それをどんな風に自分の中に収めていくのか。 それをしていく過程で、自ずと自分の中に育ってゆくものがあるでしょう。それそのものを目的にはできないし、しないほうがいいのかもしれないのですが、生き物にとって大切なものなのではないかと感じます。そして、私がある種のセッションをアートだと感じるのはそういうところなのではないかなと思います。

水引

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先日山口潤先生の古武術の稽古会で「 水引を咥える 」というのをやりました。 咥えてみると最初は顎が重だるく感じられて、しばらくすると逆に顎から力が抜けて軽くなった感じがしました。 私は元々食いしばりが強いのだけれど、水引を咥えると唇と唇の間のスペースを大事にする感覚が出てきて、顎の力が抜けるだけでなく、今まで使ってこなかった唇をふわっとさせておく方向の筋肉を使えるようになったのではないかという気がしています。今まで使ったことのない筋肉が使われるようになったので、そこがだるくなって、しばらくして馴染むと力が抜けた感覚が感じられるようになるのかなと。 経験から抽出された答えを教えてくださるのではなくて、「自分で感じてみて自分なりの身体感覚を研究しなさい」という山口先生の稽古会で学んだもののひとつは、自由と独立の感覚であったかもしれません。

ミクロコスモス

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  最初は「日の当たる縁側でお茶をすするおばあちゃん」みたいなイメージが出てきていた「 丸い背中 」、時間が過ぎたら「新生児」とか「胎児」みたいなイメージが出てくるようになりました。 お腹側のスペースが潰れて背中が丸くなってしまうと「丸い背中」は「しょんぼり」みたいなエネルギーの枯渇した感覚になってしまうけれど、背面の空間に身を委ねる感覚があるとお腹側の空間を抱いているような感覚になって、むしろはじまりのエネルギーやそれに対する信頼感みたいなものを感じるみたいです。 こうやって感じてみると、胎児が抱いている空間って宇宙みたい。ミクロコスモスとマクロコスモスってこんな感覚なのかなあ。

丸い背中

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先週今週とyieldのWS三昧の日々を送っていました。 昨日田畑さんのデモセッションでモデルをさせていただいて、子供の頃に木から落ちて背中を打った経験をもとに 腕を扱う セッションを受けたら「腕から肩甲骨までひとまとまりになっていて、それが曲面の肋骨の上に乗ることで肩甲帯が構成されている」っていう感覚が出てきました。 自分の中で背中って一枚の平面の板みたいなイメージだったのだなと思いました。解剖図では後ろまで鳥かごみたいな構造、そして曲面だとは知っていたけれど、自分の身体でそれを感じたのは初めてで大興奮。 その感覚と繋がってるんだと思うんだけれど、セッション後は背中が丸い感覚になりました。ビーズクッションにもたれかかっているみたいな。イメージの中では猫背になってるような感じに感じたのですが、何故かそれがとても心地よい。前後比較の写真を見たら猫背なのではなくて、背面が曲線的に伸びているけれどお腹側が狭くなってないっていう不思議な姿勢でした。 「背中って伸ばさなくてよかったんだ!」と嬉しい驚きだったのですが、帰宅途中に思い出した。中学か高校時代、姿勢の悪さを親にいつも注意されていて、あまりにも直らないので猫背矯正ベルトみたいなやつを付けられていたことがあったな…。「背中が曲がっている→みっともない、空間が狭くなる」みたいな無意識の思い込みがあったのだと思います。 背筋を伸ばさなきゃいけないと思い込んで背筋を伸ばすのと、背筋を伸ばした方が心地よかったり効率的な身体の使い方になるからそうするのとでは外から見たら同じ形でも意味合いが違う。 身体が「快適なら背筋を伸ばさなくてもいい」と納得してくれたようなので、しばらくこれを楽しんでみます。その先に「背筋を伸ばすと気持ちがいいなあ」があればそのときはきっと今までとは違う「背筋を伸ばす」があるような気がします。

気がかり

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  高校生くらいの時にメンタルよりも先に身体に出る事に気がついて「なんとなく気が重い」とか「消化器の調子が悪い」ということがあると自分の行動を見直すようにしていました。 大体は何か気がかりなことがあるんだけれどそれが何なのかがわからないときになる感じがしたからです。期日が迫ってるのにレポートが進んでないとか、テスト勉強が進んでないとか、部屋が散らかっていてストレスとか、友達に手紙の返事を出してないとか、そういうのを片っ端から試して、ヒットすると大体症状がすっと軽くなるような感じでした。 ここの所横隔膜が強く緊張していて、その感覚が強くなってきている気がして気になっていました。自分で緩めたり、セッションを受けると一時的には治るのだけれどまたしばらくすると戻ってしまう。 中学生の頃のように、何か気がかりがあるんだなあと思って試した結果、なんとなくヒットしそうな感じだったものは「部屋の片づけや家具の配置」と「一人の時間」でした。 でもなんかドンピシャではない。人の話を聞いたり、身を置いた環境で身体がどんな反応しているかを見ていて思ったのは、多分身体が出してきている気がかりは「境界を引くこと」だということ。そういえば横隔膜は区切るもの、コンパートメントだなあ。 ちょっと試してみようと思います。

感覚を信じる練習

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先週今週と、yieldのWSに参加していて、ペアを変えながら毎日yieldを受ける機会に恵まれています。そうすると、施術者によって、受けるタイミングによって、自分の身体から出てくるリアクションの質が随分違う事に気がつきます。 強くて大きい感じのものが沢山出てきやすい組み合わせもあれば、微細な感覚が出てきやすい取り合せもあるし、何か映像やイメージ的なものが沢山出てきやすい取り合せもあります。 どんなセッションが良い、というものではなく、その時の自分が興味を持てたり面白く感じられるものが身体が求めているものなのかなという感じがします。経験上、面白いセッションに出会うには「あの人のセッションを受けてみたいな」と感じた時に行ってみるのが良いようです。 そして、「こんなセッションが良い」と先に決めてしまわないで「何となく気になるから行ってみようかなあ」と行動してみる事自体が、自分の感覚を信じる練習にもなっているのだと思います。

Resonance Blue

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セッションルームの名前、「Resonance Blue」は、2010年のお正月くらいに見た夢と、身がまま整体の片山洋二郎先生の本を読んでいて心に残った言葉「共鳴」からとってつけました。 夢というのは面白くて、なんとなく先行きを暗示しているような時があります。あるいは、それ自体をひとつの体験として捉えると学びや気づきがあったりもする。 なんとなくこの夢は自分にとって大切なものな気がするなあというものがあったら、大事にとっておくといいのかもしれないと思ったりします。 以下、その夢をまとめてみたものです。 『夫と子供と一緒に奄美大島にいます。一日島で遊んで、夕暮れの海を見に来たところ。 海からは甘い潮の香りのする風が吹いてきます。水はどこまでも澄んでいるけれど底が見えない急深の海。日が落ちてきて海も空も同じトーンの深い青です。なんて綺麗なんだろう。 私はどうしてもこの海に入ってみたいのだけれど、海に入るには水中眼鏡が必要だと言われて、それを届けてもらえるのを待っています。 夫と子供と一緒に岸壁に腰かけて脚をぶらぶらさせながら海を眺めていると水中眼鏡が届けられました。 家族を残して早速海へ。温かくってなんだか羊水の中にいるみたい。気持ちが良くて夢中になって泳ぎ始めました。 ふと気が付くと随分沖にいてふと怖くなりました。このまま泳いでいったら一人この青い海の中で力尽きて沈んでしまうのかもしれない。振り返れば遠くにぽつんとさっきの岸壁が見えます。今ならまだ帰ることができる。 でも…海の青と空の青が溶けあってひとつになっている水平線の方へ泳いでいきたい、このまま自分もこの青の中に溶けてしまいたい、そういう気持ちに抗う事ができません。 力尽きて沈んでしまってもそれはそれで幸せなのかもしれない。 沖へ、もう見えない水平線へ向かって向かって再び泳ぎ始めたところで目が覚めました。』 今になって思えばこの夢は「世界に溶けてしまいたい」という感覚につながっていたのだなあと思うし、自分の名前が「海」であることにも何か不思議な偶然を感じます。 夢って不思議。