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5月, 2021の投稿を表示しています

Yieldingと関係性

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   yieldをお受けくださった方から、「家族や周囲の人との関係性が変化した」というようなご感想を頂くことがあります。私自身もyieldを受けてきた中で実感があり、それが何故なのか不思議に感じていました。 最近田畑さんが「ロルフ・ムーブメント ワークショップ」というグループの中でyieldingと「関係性」についての文献の引用をしてくださっていました。 yieldという動きが「能動的」であるということが非常に興味深く感じます。「能動的に受動の状態で在る」ということは、パフォーマンスを上げるための鍵になっているような気がする(パントマイム、古武術、施術などの稽古の経験を通じてそう思います)からです。 また、人と関係性を結ぶこと、相手を受け入れ交流することにもその姿勢は必要なものに思われます。パントマイムも古武術も施術も相手との交流が発生するものですし、そもそも身体を動かすことには自分自身との関係性が大きく関わるように思います。 以下、その文章を貼らせていただきます。 『Yieldingに関して イールドは、最初の発達段階の動きです。しばしば受動的に明け渡すことや「何もしないこと」と誤解されますが、実際にはイールドは能動的に関係を結ぶことであり、他のすべての動作の基礎となる基本的な動作です。母親の胸にしっかりと抱かれている乳児のイメージを思い浮かべてみてください。2人の間の非常に具体的な接触を感じてください。乳児がこの接触に身を任せているときは、乳児の筋緊張がぐにゃっとなったり、母性的な結合がないために虚脱しているのとは質的な違いがあり、感覚があります。 "ゆだねることは、他のすべての発達上の動きや、世界に対する私たちの基本的な関係の基礎となっています。" - スーザン・アポシャン イールドという動作は、私たちを環境に接触させ、自分の体重を重力に解放させます。体の重さが重力に委ねられると、それに応じて体の構造が浮き上がるような感覚が生まれ、他のジェスチャーや動きの表現をサポートします。 ゆだねることは、内受容感覚(身体の内臓や内部組織から生じる感覚を読み取り、解釈する能力)の鍵となります。ゆだねることは、意識をサポートし、私たちの内面に対する理解を深め、豊かさを保証する行為です。ゆだねるという動作は、感覚の展開を促します。これらの感覚が楽しいもので

間の人

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yieldを学んでいたら、自分という個体が1個の細胞みたいになれたらいいなあということを思うようになりました。 生活しているとどうしても物事に優劣というものをつけたくなってしまうのですが、きっと細胞には優劣なんかなくて、それぞれが関係性の中で動きながら身体という全体を形づくっているのでしょう。 私も人と比べての優劣を脇に置いて私なりに生きてゆく事ができたら、出会う人やものたちともっと豊かなものを形づくっていけるんじゃないだろうか。 少し苦しくなってしまったときは、自分が1匹のアリだったらどんなかなあ、なんて思いながら。

うねり

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 病気のときって不具合が気になりがちだけど、それと同時にある身体の中に回復に向けて動いているもの、波のうねりみたいな力強いものを見つけると嬉しくなります。 自分の身体の中にも大きな自然と同じものが働いているんだなって感じがして、頼もしい。 どんな風に捉えるかで、身体は色々な風景を見せてくれますね。

5/8 UNDO

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 5/8の「UNDO 静かな土曜日」では2つのセッションをさせていただきました。 実験的に進めていくセッションを楽しんでいただけて、私もとても充実した時間を過ごさせていただきました。 身体感覚に興味をお持ちの方、空間の感覚を楽しんでみたい方、ぜひ遊びにいらしてください。次回は6/12です。 http://newsdee131.jugem.jp/?eid=28&pagenum=1#gsc.tab=0

判断を離れる

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 セッションでは時々「身体にどんな感覚がありますか?」という事を受け手の方に訊ねます。 受け手の方の身体の状態を把握するためという部分もないわけではありませんが、受け手の方がご自身の身体に意識を向けてみる事を促している意味合いが大きいです。 答え方には個性が現れるなあと感じますが、現れた身体感覚をジャッジしたり何かの枠に振り分けたりするような見方で捉えるよりは、その感覚の質感に意識を向けて頂くとより変化が促されるのではないかと思います(自分がyieldを受けている時の感覚からそう感じます)。 私たちは日常生活では判断する事を求められる事が多く、それが自動化してしまっているところがあります。しかし、判断というのはどこかに基準を設けて初めて成立する事で、視野が広く無数の基準がある事に気がついてしまうと混乱を、1つの基準に頼り過ぎてしまうと執着を生んでしまうように思います。 自動化というのは定型のパターンにはまり込んでしまう事でもあります。パターンを変えてみるためには自動化を一旦緩めて、自分で選択するためのスペースができると良いのではないでしょうか。 判断から離れて一旦物事をありのままに眺めてみるためには、「質感を感じてみる」という事がとても役に立ちます。そして、質感を感じられるためには安全・安心の感覚がベースにある事が大きな助けになります。 yieldはガイド付きのマインドフルネスのような側面がありますが、それはこういうところなのかなと思います。

自発的秩序形成

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先日キャンプデビューしました。 鳥の声と肌寒さで目が覚めてテントから出た時に見た、柔らかに明けてゆく空。 夕暮れの浜辺で遊んでいたら、小さなイワシの群れがきらきら輝く身体で波と一緒に打ち寄せてきたり。 思わず先日yieldの勉強会で教わった、自発的秩序形成ということについて考えてしまいました。 物質の塊に過ぎない私が息をして代謝して、どういう訳か意識まで持って生きている。それは 創発 、物質の自発的秩序形成によるわけらしいけれど、「私」という個体のふるまいもまた、社会であったり集合意識であったり、色々なものを創発して秩序を形成している。そうやって全てが入れ子構造で秩序を作っているとしたら、その秩序はどこまで広がっているんだろう? 宇宙はエントロピー増大の法則によっていずれ死に向かうっていうけれど、その宇宙の死の外側には入れ子は存在しないのかな? 私の存在はあまりに小さ過ぎてそんな長いスパンのことなんか感じ取れるわけもないのだけれど、個々の存在の間に立ち上がるダイナミクスがいのちなんだとしたら、いのちって個体の中に閉じてる訳じゃなく、ずっとずっと遠くまで広がっていくものなんだろうか。 私自身のいのちもそのような大きな秩序の一部としてあるのだとしたら、生き物の定めとして老いや病や死という事を抱えながら生きなければならないとしても、もっと安心して生きても良いのではないか、そんな風に思います。