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人それぞれ

 何が快適で何が不快なのか、何が幸福で何が不幸なのかっていうのは人によって全然違う。 だから他人の感性に自分の感性を明け渡してしまうと大概自分にとってのいい感じには辿り着けない。 アドバイスや忠告はそれはそれとして聞いて、自分の感性に耳を澄ませた方が良いと思うし自分が誰かにアドバイスする必要があるときは、相手と私はベースの感性もシステムも違うのだという事を出来るだけ念頭においてするようにしています。 身体がいいのは、それぞれがそれぞれの感性でいられるところだと思う。 どんなに立派なものでも、誰かの感性に合わせてしまうのではなくて、ささやかでいいから自分の感性を磨いていくこと。自分が何を感じているのかを拾い上げていくことが楽しく生きていくには早道なのではないでしょうか。

自己紹介⑩

 ロルフィングを受ける中で徐々に空間知覚が開いてきました。知覚している空間にはその空間が私にもたらしているイメージや世界との関わり方があるのだと気がついてとても興味深かった。この事については後になって再開した 若尾秀美さんのSE の中でも色々と出てきて探求を深めたりしていました。 今では空間の広がりを見るという事は、自律神経のモードの切り替えと関わっているのではないかと考えています。 『2018年10月24日 ロルフィング受けにいくきっかけになった、背中側に空間が開く感覚。 くこないだ田畑さんから「目でモノを見過ぎないこと」「見るときに持って行かれすぎないよう、アンカーとして身体感覚を使うこと」を教えて頂いた。色々試しているうちにいつも何か具体的なモノをピンポイントで見ていたのが、空間の広がりを目に入れるような見方がわかってきた。こういう風に広がりを目に入れると背中側にも空間が広がっているのを感じる。 夕方、大きな月が浮かぶ空を眺めながらその感覚で歩いていたら、「あ、センターにいる」と思った。広がりの中心はここ。広がりは私の身体から生まれていく。世界は静かで、遠くて、なんと孤独なものだろう。 最近歩いている時に時たま感じる、自分は動いていなくて周りの風景が流れ去っていくような感覚(子どもの頃に電車の中でやった、自分の電車は動いてなくて風景が移動してるように見るごっこみたいな感じ)とも重なってそう思ったのだと思う。 身体が凄い人が大体ちょっと怖い感じがしたり不思議な迫力があるのは、きっとこの孤独に耐えられる人だからなんだと思う。「自分の身体からはみ出してしまう」という話をしたとき田畑さんが「現代人はそういう人多いですよ」とおっしゃっていたけど、確かに電車の中で携帯いじっている人を観察するとかなりの割合で身体からはみ出てる。センターにいられる、という事とある種の強さはリンクしてると思う。』

自己紹介⑨

ようやくyieldにたどり着いたのでちょっと気が抜けてさぼってました💦 さて、ようやく田畑さんのセッションを申し込んでみたのですが「怖い」という気持ちがでてきて、理由がわからなくて戸惑いました。今思えばこの頃には色々と無理を重ねすぎて身体が強く緊張した状態から抜け出せなくなっていたのだと思います。一日中怠く、日常生活をこなすのが大変な状態でした。 田畑さんのセッションにはすべてyieldが導入に組み込まれているのですが、回を重ねるごとに深く力が抜けて、4回目のセッションで身体が水になってマッサージテーブルに染み込んでいくような感覚がして、身体ってこんなに緩むことができるのだなあと感動したのを覚えています。 『2018年9月1日 田畑さんのロルフィングを受けてきました。 代官山駅降りてからワークが始まるまで緊張しまくって汗だらだら、超絶挙動不審でしたが帰り道はとても落ち着いた身体で帰ってきました。 仰向けに寝た状態で田畑さんが近くに立つと、場所によって全然違う感覚が体に起こる。私は最初は左足元が落ち着かない(反応はあるのだけれど、気分がよくない)感じで、右足元は田畑さんの存在は気にならないけれど身体の反応もあまりない感じでした。そこから田畑さんが右の頭部のほうに移動してくると最初は骨盤、徐々に背中がぽかぽかしてきて、目の横くらいにいるときはちょっと反応が強すぎて頭がぎゅっと圧縮するような感覚がありました。 色々面白いことがあったけれど、感動したのは骨盤が開いていく感覚で「あ、骨盤ってこんなに広かったんだ」と思いました。この広がりのある骨盤で帰りにバスに座っていたら、子供を膝にのせて抱いているようなイメージが出てきて「誰かを抱いたり愛したりするということは、身体に広がりがなければできないことなのかもしれないなぁ」と思いました。 それから帰りに渋谷に本を買いに行ったのだけれど、普段疲労困憊してしまう雑踏が全然気にならなかった。感覚が開いていろんなものが自分の中を通り抜けていくけれど、そこに引き寄せられずにいられる感じ。それは外側の空間にあるものも、自分の内側にあるものも同じで、雑音も、空腹も、ただ「そこにあるなあ」という感じ。感覚に飛びつかずにただ過ぎてゆくのを眺めているというところが、シャバアーサナしてるみたいで不思議でした。 身体が満たされてしまうと、いろんな意味で

体験記⑧

 体験記⑥を頂いた方から、2回目のオンラインセッションの体験記を頂きました。オンラインでも人によってははっきり目視できるくらい大きな動きが出るのだということ、動きのバリエーションがたくさんあるというのが興味深いセッションでした。 『今日のセッションは、「(皮?を)むく」がテーマのようでした。 今日は、セッション前にヨガをしていたこともあり、もともいつもよりは身体がゆるんでいる感じでした。でも、はじまってすぐに気づいたことは、足先の冷たさと、左股関節硬いな、ということでした。 セッションが進むうちにまず出てきたのは骨盤と肩甲骨を開こうという動きでした。それが胸郭にも広がり、全体的に、みかん?の皮をむくような、そんな動きがうまれてきたようでした。 しばらくするうちに、股関節の前面のほうはゆるんできたのですが、あ、左腰、腰方形筋あたりのかたさは残っているなと思っていると、足をひっぱられるような、もしくは勝手にのばしたくなるような、そんな感じがしたので、その動きにまかせると、特に左足をのばそうという動きと、同時に右上半身をひっぱろうという、対角線上にストレッチしたいような動きが出てきたので、まかせました。 途中でずーんと背骨全体が沈むような感覚もきて、今度は背骨側からも皮をむかれるような感じでした。そして、胸を洗濯機のようにぐるぐると動かしたいような感覚がして、勝手に身体がうずをまきだしたので、その感覚を楽しみました。 最後は、太陽神経叢あたりを中心に皮をむかれているような、そんな感覚を楽しむうちに、あくびがいっぱい出てきて、終わりました。 終わるとすっきり、肩も首もさらにのびて、足もおちつくべきところにうまくおちついた、そんな感じがしました。』

体験記⑦

初対面の方にセッションをさせて頂きました。最初は緊張しましたが、それを外して自分の身体を安心安全モードに持っていく方法を見つけられた辺りから、受け手の方が深い休息に入っていかれました。  『まず私は、yieidのことをよく理解していないまま、セッションを受けています。気持ちよくて、全ては言葉として覚えていないので、記憶のあることだけです。 初めに鼻詰まり解消の秘技を教えていただいたときには、海さんの緊張感が伝わってきました。 寝台に仰向けになったときに、右足横に倒れているのが気になりました。実は昨日、珍しくずっと座ったままパソコン仕事をしていたので、夜、右の腰に違和感がありました。 それでかな⁇と思いました。 初めに記憶があるのは、左の頭を吸引機で軽く吸われるような感じがしたこと。イヤな感じではなく、わぁ何かアクセスされている!という感じでした。 右側の開いた感じと、左側の閉じた感じが異なっていたのが、左腰が一瞬痛くなった後、だんだんと左側が解かれてきたのを感じました。 そして、肩甲骨の辺りにクシャクシャにたたまれていた翼をバサッと広げて上下に動かしたい衝動が起きました。(翼なんてないのにwww) でも、翼が大きすぎてここでは広げられないなと思いました。 その後は、気持ちよさを感じながら、時々寝ては、ハッと気づいたりを何度かしていたと思います。 気付いたら鼻もしっかり通っていました。 人の身体の近くの場にアクセスしたり、少し触れるだけで、変わるって、人間の身体は凄いのですね。 ありがとうございました。』

体験記⑥

 オンラインセッションのご感想を頂きました。身体の自己調整能力は凄いなあと嬉しくなるようなセッションでした。ありがとうございました。 「オンラインのセッション、とどんな感じだろうと思っていたのですが、とてもよかったです。 最初は、足先がこんなに冷たかったんだ、ということに気づき、それから恥骨から内腿にかけても少しひんやりしていること、膝から下が、何かの鋳型に入ってるかのような窮屈な感じがすることに気付きました。 しばらくすると、上半身がゆるんできて、肩甲骨、背骨が勝手に動きたくなったようで、動きにまかせました。発芽前の種の中で、もぞもぞと動いている、そんな感じでした。 ひんやりしてた恥骨周辺も、温かいピリピリとした感じのものが集まってきて、内腿から下へと、左右ともに伝わっていった感じでした。 セッション終わった後は、ヨガをしたあとのように、胸が開き、肩が下がり、体がスッキリしました。 ほんとにありがとうございました。」

医療処置とyield

自分の経験ですが、手術後や点滴処置の後にyieldを受けると、医療処置に対して身体が防衛反応を起こしたままになってしまっていたものが解ける事がありました。 防衛反応というのは例えば手術した側に立たれるのが嫌だったり、空間知覚を失っていたり、点滴を受けた腕がこわばって力が抜けなくなっていたり、処置から逃げようと意識が正中からズレたりという事です。 意識の上ではそんなに怖がったり反応したりしているつもりはありませんでしたが、yieldでそれが解けていくと「身体は何とか身を守ろうと頑張っていたのだなあ」と感じました。 身体が怖がったままになっていると姿勢が崩れたり(消化器系の不調と双方向的にリンクする事があります)、背中や肩が凝りやすくなったり、疲れがとれにくくなったりするので、yieldで身体を安心させてやることは回復の助けになる事があります。

体験記⑤

 zoomでのオンラインセッションをお受けくださった方から体験記を頂きました。ご自身の身体感覚からでてくるイメージを詳細に読み取って楽しんで頂けて、とても良いセッションになりました。体験記も頂き感謝です。 ご希望あればオンラインセッションも致しますので、ご相談ください。 『 ・一番印象的だったこと 「自分の体の中で心臓が動いている」という感覚を感じたことでした。 特に動悸とかではなく、子供の頃は感じていた感覚で、ずっと忘れていたのですが、感じたら思い出して、それはとても快適で安心な感覚でした。 ・体の感覚と変化 最初に感じた右半身と膝下の縮こまりは、感覚としては「怯え」に近かったのですが、最後はそれらが繋がって、両足で地面にしっかり立っている感覚になりました。色々不安なことも多い昨今、何かと心配したり必要以上に怖がったりしがちで、自分でもどうしたものかと思っていたんだけど、体が繋がったら心も落ち着いた感じがありました。 怯えによって体が縮こまることもあるけれど、体が縮こまることにより怯えが発生することもあるんだろうな、と。 体からこんな風にアプローチすることができるんだ!と感動。 ・感じたエネルギーの流れ 最初に右半身の縮こまりを伝えた後、内側に曲がっているのとは反対側に、ぐーっと大きくゆっくり引っ張られる感覚がありました。その後、両手のひらでぐっぐっと腕を包んで圧されているような感覚で、その後あたたかくなり左右の感覚が均等になっていきました。 脚の縮こまりを伝えた後、前腿から膝の内側に向けて流れるように撫でられている?押されている?感覚がありました。 ・その他 日差しは当たっていなかったと思うけど、目を閉じた瞼の裏が何度かチカチカとしたり、いくつかイメージというか風景のようなものが見えました。具体的でしたが、それが何と結びつくのかは今のところ思い当たりません。 前述した体の縮こまりが、これから来るかもしれない怖いことへの怯え、「未来」だとしたら、こちらのイメージは「過去」の感じがしたんだけど、イメージ自体は嫌な感じじゃなかった。これ何なんだろう、って考えるのが楽しいです。 ・終了後 ものすごく眠くなり、子供と一緒に30分ほど昼寝しました。 とっても楽しかったです! どうもありがとう!! 』

自己紹介⑧

 SEを受け始めてしばらくして、数年前から気になっていた能楽師の安田登さんのイベントを見つけました。SEで最初1番気になっていた田畑さんとのコラボイベントで、何だかご縁を感じるなあと思って参加しました。田畑さんのデモセッションを拝見していたら背中側の空間が開いた感覚がして、舞台を観ていても持っていかれないと言うか、身体にちゃんと留まっている感じがしました。背中の空間感覚のクリアさと見ていただけで感覚変化が起きた事がとても衝撃的で、やっぱり田畑さんのセッションを受けてみたいと思いました。 『2018年6月20日 ロルファーの田畑さんと、能楽師でロルファーの安田さんの対談「憑依と肚について,空間に於ける位置関係のパフォーマンスに与える影響」+3000年くらい前に成立したシュメールの物語を能にした「イナンナの冥界下り」を見に行ってきました。 田畑さんがイナンナの出演者にロルフィングのセッションしていたんだけど、位置関係を使うというのが面白かった。出演者の人は、まずイナンナの謡を一節歌って声の出具合を確認してから施術台に仰向けに寝る。で、田畑さんがどの位置にいると出演者の人が快適か質問したり、身体の様子を観察しながらいい位置を見つけて立つ。身体の様子を確認しながら間合いを変えたり、ちょっと触れてみたり、受け手の感覚を誘導してみたりしておしまい。超地味。 でも、起き上がった出演者の人は胸がすっと抜けて、肚が座った感じになっていました。もう一度同じ謡を歌ってみせて、それも変化していたけれども一番変化していたのは普通に話すときの声。とても深い声になっていました。 お、凄いなぁ!距離は近けりゃいいってもんでもないんだなぁ。とびっくりしてみていたのだけど、その後その出演者さんが再度微調整をかけてもらっているのを見てたら、ふっと私の背中が抜けた。背中側に空間が広がった感じ。その後イナンナの舞台を見ていた時も、帰ってきた今も、背中側にちゃんと空間がある。 「人間の身体は響きあうようにできていて、身体が整った人と同じ空間にいれば整う方向に動くし、身体能力が高い人といれば身体能力が底上げされる」というのは実感としてあったけれど、そこそこ距離があっても、凄く集中してみてるわけじゃなくても共鳴してしまうのかとびっくりした。 田畑さんの共鳴能力の高さに共鳴して私の共鳴能力自体が底上げされていた可能

感情

 演じ方って色々な方法があって、触れる事ができたのはほんのはじっこのちょっぴりでしかありませんが、私はパントマイムやお芝居でうまくいっているような時はある動きをしてみたときに身体から感情が出てきて、それを少し離れたところから割とドライな感じで眺めているような感じがしていました。 楽譜を演奏して音が出てそこからメロディが立ち上がってくるのを聴いてるような。 その経験を繰り返していたら少しずつ、感情を身体感覚の一種として扱えるようになってきました。そうすると感情に振り回されにくくなりますし、ちょっと不釣り合いなくらいの強い感情は思い込みやトラウマ的な何かが隠れているのかなと推測がつきやすくなります。 行動するときに、発信ではなく受信で動くこと。長いこと私のテーマですが、色々な恩恵があります。

自己紹介⑦

 シャバアーサナで感じた感覚から、トラウマという事に興味を持ち始めて ソマティック・エクスペリエンス(SE) というトラウマ療法にたどり着きました。 SEは身体と神経系を対象にした療法で、身体を通じて心を探求する事に興味を持ち続けてきた私にはとてもしっくりくるものでした。 SEの協会HPから通える範囲で活動されていて、心よりも身体にベースを置いている方を探しました。1番気になったのは今yieldを教わっている田畑さんでしたが、ロルフィングの中で提供されているとの事だったので、まずは純粋にSEを受けてみたいと思って 若尾秀美 さんのセッションを受け始めました。 SEでは意識を身体感覚に向けてみて、それがどんな感じがするかを丁寧に拾っていきます。今までは何かしている時の身体感覚を追いかけていましたが、SEでは椅子に座っている普通の状態で感じている事をじっくり観察していきました。 瞑想とも通じますが、何もしていない時に自分の身体に注意を向けてみることは自分自身と向き合う事でもありました。何かを見る、感じる。そしてその感覚が快か不快か。自分ではできるようになっていたつもりでまだまだ感覚を無視していたのだなあと驚きました。 『2018年5月28日 今日のSEでは部屋の中の温度だったり、明るさだったり、外から聴こえてくる声だったり、見え方だったりが「自分にとって快適かどうか」という、自分にとっての快適を身体を使って探していきました。 なんとなく窓の方を見る癖があるけれど自分の感覚をよく見ると明るさがきつすぎると感じていたり、ちょっと寒いなと思っていたり、一緒にいる人には視界の外にも中央にもいて欲しくなかったり。 私は普段は自分の快適よりも目的や社会性を優先して「まぁいいか」と受け流しているけれど、感覚をよく見ていくとかなり「あれは嫌」「これも好きじゃない」と、色々と細かいことに違和感を感じているんだなぁ。 なんか、子供に戻って我儘になる稽古をしているみたいで面白い。ものすごく疲れるけれど。 あと、モノを見るときに、画素数が多すぎるっていうか、過剰にリアルな感じがあるときというのがこれまでもあったのだけれど、今日それを感じてみた時に、そういうときの自分は視覚に圧倒されちゃってるんだなと思いました。たぶん、視覚だけじゃなくてこの過剰な感じっていろんな場面で感じていて、でもそう思った

自己紹介⑥

 ヨガで1番面白かったのはシャバアーサナでした。色々な感覚が出てきたけれど、雑念がわいてやがて消えていくのが、川に流された葉っぱが石に引っかかってしばらく留まり、また流されていくような感じに見えて、意識って面白いなと思ったのを覚えています。 シャバアーサナを楽しみにヨガに通っていたら、ある時「怖い」という感覚が出てきて、前に進むときなのだなと感じました。 『2018年4月20日  井上先生のヨガ稽古でシャバアーサナという、寝転がってボーッとするやつをやった時に、ふと「怖い」という気持ちが出てきて、その怖さが今に根っこがあるものではなくて、子供の頃に作られた感情だという事が理解できた。 もうだいぶ前の事だし、自分ではある程度あれこれ考えもして消化したつもりでいたのに、こんなにも生々しく出来立てホヤホヤみたいな顔をして残っていたことに驚いて、ずーっとモグモグしていました。 散々考えて認めざるを得ないなと思ったのは、この件に関して私は耐えきれなくて蓋しといただけで、全く消化も癒しもされてない。 私が色々チャレンジしたり努力したりしているように見えるものの中には、かなりの確率で向上心に見せかけた自己否定が混ざっていて、外から見てどれだけの結果が出せても自分自身は「今の私」を否定しているだけだ。だから何をしてみても着地点が「至らない私」になってしまう。 そろそろ違うところに着地してみたい。違う風景が見たい。』

自己紹介⑤

 関係性、というものが気になってきたころ、再びの転居で神奈川県に住むようになり、パントマイムの稽古を続けつつ、 井上欣也先生 から古武術とオリジナルなヨガ(瑜伽)を教わるようになりました。 またまた昔の稽古録より。 『2018年7月1日 瑜伽での声について。 前回は広がりがあって空間みたいな感じがするって思った声。今回は「調和」ということを思いました。 「どんな感じで声出そうかな」って思ってちょっと出遅れた声出し。先に声を出している人の声を聴いていたら、「ここに自分の声を入れたい!」と感じるスペースをみつけました。絵で言ったらそこだけ白くて、絵の具を塗る余地があるような感じ。 「さて、このスペースにぴったりはまるような声が出るかな?」と思いつつもとりあえず声を出してみたら、音階的にもトーン的にもぴったりくる声が出せた。自分が思っていたよりも低い声を柔らかく出せたのでちょっと感心しました。 空白に合う位置に、同じトーンの色を乗せるようにして声を響かせていくと、周りの色と溶け合って一枚の絵のようになりました。 なるほど、こういうのを調和っていうのだなあ。自分の居場所を見つけて、自分の出せる色の中から合う色を響かせていけばいいのか。 声が教えてくれること、面白いなあ。』 古武術では関係性や技の質感を見るのが面白かったのですが、ヨガでは自分と向かい合うこと、パントマイムと同じように身体感覚を通じて自分の中から出てくるものに向かい合うところ、それから、瞑想的な意識の状態についても感じられて楽しかったです。

自己紹介④

 それまでずっと無視し続けてきた身体感覚を探求していくことがとても面白くて、飢えを満たすようにパントマイムの稽古に明け暮れていた1年間。稽古がない日は舞踏のWSやコンタクトインプロビセーションというダンスのWS、それから言葉を使う芝居をやってみれば表現としてのパントマイムについての理解が深まるだろうかと思ってオーディションを受けて芝居のWS公園に出演させていただいたりもしました。 出産のためこの期間は1年ほどで終わりましたが、それでも身体が面白くてなんとか時間を作っては細々とパントマイムの稽古に通い続けていました。 転居でパントマイムの稽古に通えなくなってからは兼ねてから興味があった古武術を学んでみたくて、 甲野善紀先生 の稽古会に参加したり、名古屋の 山口潤先生 の講座に通ったりしていました。 先生方に技をかけていただくときの力の通り方や質感、それから技の動きは見えているのに身体が反応できない感じ(神経系を上手く利用しているのではないかと考えています)、それに技が通る時は頑張っている感覚がある時ではなく手答えがない時だということなど、自分と他者の関係性を含んだ身体感覚に興味を持ちはじめました。 またまた昔の稽古録。 『2013年10月19日 武術においての勝敗を決めるのは「崩し」が決まったときなのだそうです。身体の位置や状態、気持ちが崩れるとその時点で負け。どこまで崩したら決着が着くかというのは、転がせば勝ち、ふっ飛ばせば勝ち、首の骨を折れば勝ち、と文化的背景によって異なるけれど、とにかく崩せば勝ちです。 「今を生きる人の集い」というイベントで伺った中島 章夫さんという動作術研究家の方の「崩しの原理」についての説明がとても面白くて「人を押してみたときに、もたれかかるようにして押すと動かない。それは自分がもたれかかった分だけ相手ももたれかかってくるから。もたれかかることをやめて自分の中のまっすぐをキープして押せば相手は崩れやすくなる」というものでした。 やってみて、「おや?」と思いました。前日聴いていた被害者意識の話、あの話の中の「甘え」という言葉はある側面で私には受け入れがたかったのだけれど(被害者意識を持たざるを得ないような悲惨な事ってあるように思うので)「もたれかかる」という動きに置き換えて考えると非常にすんなりと受け入れられます。 相手が敵対的でない場合には

自分の感覚を信頼するということ

 ちょこっと寄り道。 自分の身体を、自分の感覚を信頼するという事について少し書いてみたいと思います。 身体のことについて学びながらずっと考えていたことのひとつが「主観と客観」です。 パントマイムを始める前の私は主観と客観があったら必ず客観の方が優れていると思っていました。でも、身体感覚というのは完全なる主観です。主観を低いものとして見て疑っていた私は「自分は正しい感覚を得ているのだろうか」「本当に感じているのだろうか、気のせいじゃないか」ということをずっと考えて身体と向き合ってきました。人間には錯覚という、システム上正しく認識できないエラーもあるし、思い込みという色眼鏡からは逃れられません。 でも、錯覚や思い込み含めて、完全に主観的なもの(身体感覚)というのは、自分自身であるともいえるのかもしれません。 私が身体感覚をひとつひとつ納得がいくまで確かめて進んできたのは、自分自身と繋がる道のりだったようにも思います。 身体感覚と自己。随分昔の稽古録でありますが、今振り返って読んでみると当時考えていたことは、既に今yieldをしながら感じていることの予感であるようにも思えます。 そして時々、「自分の感覚を信頼する」という事は「直観」とも関連しているのではないかなあと思ったりもするのです。  『 2011年12月17日 JIDAIさんからも言われるし、自分でも思うけど、マイムやってるときはどちらかというと意識を受身に、最小限にして無意識の方を主体的に働かせるようにしたほうがうまくいくみたい(といっても無意識なので意識的にコントロールできたりはしません。動きを覚えて意識せずにできるようにしておいて、あとは意識の側でその動きを感知していく感じ)。 最近知ったのですが、スポーツで「インナーゲーム」と呼ばれるものがあって、それとこれは良く似てる・・・っていうか多分同じものだと思う。ウィキを貼ろうとしたらリンクが上手く貼れなかったので、コピペ。ウィキで検索するともうちょっと詳しく見られます。 ①インナーゲーム(inner game)とは、勝負において、競技者の外側の世界で実際に行われるアウターゲーム(outer game)に対して、競技者の心中で行われるもうひとつの勝負のこと。テニスコーチのW.ティモシー・ガルウェイ(W. Timothy Gallwey)が、レッスンを通して考案し、

自己紹介③

 パントマイムを習いながら自分の身体と繋がる事、そしてそのツールとしての身体感覚に強い興味を持った理由は、稽古の中である動きや姿勢をしてみたときに自分の中からイメージが出てくることでした。またまた当時の稽古録を引っ張り出してきてみます。 『2012年9月7日 先日マイムのレッスンに行ったときに「膝を抱えてしゃがみこむ」という動きをやりました。 JIDAIさんはそれを「消えてなくなりたい、みたいな気持ちだよ」 と言っていたけれど、やってみたら自分の生命の意思みたいなものを感じました。 身体を丸めて身も心も閉じきって、だけどそれは次に踏み出すエネルギーを蓄えるための姿勢。傷を癒して生まれなおすための姿勢。胎児みたいに。 「消え去りたい」じゃなくて「死んでしまいたい」じゃなくて「生まれなおしたい」なんだ。 ギリギリのところにある生への意思。生き物としての私の意志。 身体は色んなことを教えてくれます。 』  こうやって出てきたイメージは、まるで自分の身体や無意識からのメッセージのような、自分専用劇場のような感じがしてとても面白かったのです。こういうのを ソマティック というのだということを知ったのはずいぶん経ってからです。 まだまだ続く

静寂

イメージ
  思考がぐるぐるしちゃうときとか、目の前にいない誰かと脳内会議や脳内バトルしてるときとか、エンドレスリピートで歌や音楽が脳内再生されてるようなとき。 そういうのを雑念といい(瞑想してないときでもそれはオートで流れている)、そういう脳内自動出力は外の世界からの入力を妨げる。視野がなくなり、音の響きが聞こえなくなり、空間がなくなる。 この脳内自動出力が減った状態が静寂なんだと思う。静寂というのは無音ではなくて、ひとつのトーン、響きとして知覚される感じがします。 完全な静寂があるのかどうか…というか完全な静寂の中で自己意識が保てるのかどうかは体験したことないからわからないけど。いや、もし自己意識が保てないなら体験してもわからないのかな。 私はあまり瞑想の習慣はないのですが、yield受けていたらある時静寂の響きが出てきたから、yieldってガイドつき瞑想みたいなところがあるのかもしれないと思っています。

謹賀新年

 あけましておめでとうございます。 年末年始、久々にワークも身体感覚を使う稽古もお休みして過ごしたので食べ物への執着が増してちょっと食べすぎました。 明日からまた体調整えつつ身体感覚で遊んでいきたいなと思っています。 私は運動神経はあまり良くないのですが(スポーツは学生時代にやった登山とさぼってばかりだったオリエンテーリングくらい)自分の身体と遊びながら繋がっていくことがとても好きです。 身体というのは自分にとって一番のパートナーでありメンターでもあると感じます。今年も自分の身体と仲良く楽しくやっていきたいです。 新しい一年がよいものになりますように!