自分の感覚を信頼するということ

 ちょこっと寄り道。

自分の身体を、自分の感覚を信頼するという事について少し書いてみたいと思います。

身体のことについて学びながらずっと考えていたことのひとつが「主観と客観」です。

パントマイムを始める前の私は主観と客観があったら必ず客観の方が優れていると思っていました。でも、身体感覚というのは完全なる主観です。主観を低いものとして見て疑っていた私は「自分は正しい感覚を得ているのだろうか」「本当に感じているのだろうか、気のせいじゃないか」ということをずっと考えて身体と向き合ってきました。人間には錯覚という、システム上正しく認識できないエラーもあるし、思い込みという色眼鏡からは逃れられません。

でも、錯覚や思い込み含めて、完全に主観的なもの(身体感覚)というのは、自分自身であるともいえるのかもしれません。

私が身体感覚をひとつひとつ納得がいくまで確かめて進んできたのは、自分自身と繋がる道のりだったようにも思います。

身体感覚と自己。随分昔の稽古録でありますが、今振り返って読んでみると当時考えていたことは、既に今yieldをしながら感じていることの予感であるようにも思えます。

そして時々、「自分の感覚を信頼する」という事は「直観」とも関連しているのではないかなあと思ったりもするのです。

 『2011年12月17日

JIDAIさんからも言われるし、自分でも思うけど、マイムやってるときはどちらかというと意識を受身に、最小限にして無意識の方を主体的に働かせるようにしたほうがうまくいくみたい(といっても無意識なので意識的にコントロールできたりはしません。動きを覚えて意識せずにできるようにしておいて、あとは意識の側でその動きを感知していく感じ)。


最近知ったのですが、スポーツで「インナーゲーム」と呼ばれるものがあって、それとこれは良く似てる・・・っていうか多分同じものだと思う。ウィキを貼ろうとしたらリンクが上手く貼れなかったので、コピペ。ウィキで検索するともうちょっと詳しく見られます。

①インナーゲーム(inner game)とは、勝負において、競技者の外側の世界で実際に行われるアウターゲーム(outer game)に対して、競技者の心中で行われるもうひとつの勝負のこと。テニスコーチのW.ティモシー・ガルウェイ(W. Timothy Gallwey)が、レッスンを通して考案し、1974年に著作 "The Inner Game of Tennis" の中で発表した考え方。ガルウェイは、心の中のインナーゲームに勝つことが、アウターゲーム(実際の勝負)に勝つための近道であると説く。

②ガルウェイは、競技者の心中で行われるインナーゲームにおいて、二人の自分がいることを見出し、それぞれセルフ1、セルフ2と命名してその性質を調べた。実際の勝負(アウターゲーム)の最中に多くの人は、心の中で自分自身のプレイに対して悪態をついている。ガルウェイは、これを「セルフ1がセルフ2を非難している」ととらえた。フロー体験またはゾーン体験、ピークエクスペリエンスなどと呼ばれるような、高度な集中力が発揮されている場面では、このようなセルフ1によるセルフ2への非難は沈静化し、セルフ2のもつ潜在的な学習能力と創造力がのびのびと機能する、というのがインナーゲームの考え方である。

③セルフ1による妨害を阻止して、セルフ2のもつ力を最大限に引き出すことがインナーゲームにおける勝利であるとされる。意識が過去や未来、あるいは他の場所について考えているときは、つねにセルフ1が優勢となる。また動作や行動の善し悪しをいちいち判断しようとすることもセルフ1を優勢にしてしまう。すなわち、結果のフィードバックは、いかにも動作や行動の改善に有効に思えるが、過去への判決であり、インナーゲームの最中においては、セルフ1を助長するものに他ならない。悪い動作や行動について悪態をついたり、叱ったりすることだけでなく、良い動作や行動についてそれを褒めることも、セルフ1を助長するという点では同じ、ということに留意するべきである。

ガルウェイによれば、セルフ1による妨害を防ぐためには、意識を「現在、この場所で起こっている事態」に集中することが重要であるとされる。これは、善し悪しの判断をせずに、「変化する知覚要素」に注意を注ぐことでもある。したがってインナーゲームにおいて勝利を収めることは、集中力を高めるということでもある。


セルフ1というのは私が「意識」と呼んでいるもの、セルフ2というのは「無意識」と読んでいるものとイコールだと思います。確かに「無意識」といっても意識できないってわけじゃなくて「意識=精神的な自分」に対して「無意識=肉体的な自分」って感じだから、「セルフ2」という名前の方がしっくりくる感じかもしれません。

自分の経験から思うのですが、このインナーゲームに勝利した状態である「現在、この場所で起こっている事態に集中した状態」のときに私は「存在」というもののリアリティを強く感じているような気がします。

逆に言うと、自分が何かを鑑賞しているだけだったとしてもそこに存在のリアルさを強く感じているときは恐らくインナーゲームに勝利しているんだろうなぁ(そういうときは外的なゲームは行われてないのでインナーゲームって言葉自体がそぐわない気もするが)。

「いまここ」に自分の全てが集中すると自分が凄く安定するのです。それは多分、「未来」や「過去」を失ってしまうために「不安」とか「後悔」みたいな自分を消耗させる感情がなくなってしまうからなんじゃないかと思う。もちろん「希望」とか「達成感」みたいにそれと対になる感情もなくなってしまうんだけれど、そういう相対的な感情って実はなくなってもさほど困らない(少なくとも短期的には)。

達成を由来とする自信とか楽観的予測を根拠とした希望というのは、その基本条件が崩れればすぐにでも真逆のネガティブな感情に振れてしまう。そしてその基本条件が未来や過去(記憶はすぐに曖昧になっていくし、物事の成功不成功というのは価値観や見方によって変わってしまう)という不確定なものである故にとても不安定です。その不安定さに消耗してしまうことすらある。

「いまここ」だけになっちゃうと今感じ取ってるこれが全て。不確定なものなんて何もない。そして、その境地に至るためには自分の肉体・生命であるセルフ2に対する信頼感が必要・・・というかこの境地と信頼感はセットになっている気がする。

存在というものを強く感じるとき、いまここにあるとき、私は私自身を信頼できるし(疑わない、といった方が近いのかもしれない)それによって何かが回復してる・・・ような気がします。

表現が人を救うっていうのはそういう形でなされることもあるのかも知れません。』

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