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微細な力

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初夏に作った梅シロップの瓶のふたがくっついてうまく開かない。 最初は適切な力のかけ方(力の向きとか伝え方とか)を探しながらねじってみたのですがうまくいかず、蓋の周りをトントン…と叩いてから普通にねじったら開きました。 「小さい力、微細な力だから結果が出ない」というわけではないというところが面白いなあと思います。 yieldは身体を観るときの基本単位が細胞で繊細なタッチを用いるのですが、変化は人にもよるけれど結構大きく出ることが多いです。ちょっと似ているなあと思います。 身体を観るときのフレームや基本の単位の性質が違うと、そこで起こることの種類や質も変わってきて、それをどう活用するかの方向性も変わってくるんだなあ。昨日の古武術の稽古会で学んだ事とも繋がってとても面白いなと思いました。

静的な調和と動的な調和

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  山口先生の古武術稽古会が無事に終了しました。 組織の隙間をじわじわと入り込んでいくような崩し方や、そのようにするためには動きが感覚を追い越さないように、今の意識の中では少し待つくらいの感覚でいなければいけないことを体感できました。何となくこの感覚は施術にも活きるような気がしています。 左右で力を発揮しやすい重心の位置が異なるというのは、以前施術関係の勉強で聞いた事がある骨盤の非対称性から来るのかなあと思ったり。今回は流れを妨げないための自分の身体の配置というのも気になりました。 「衝突しない」「力の軸を合わせない」というのは、合ってしまうと力が相殺されて、そこに衝突という形のバランスが生まれてしまうからなのだなあ。これはこれで、静的な調和ではある。そのバランスを崩して流れを作っていくことが崩しであって、精度の高い崩しは崩されているにも関わらず流れの中にある調和を(ダンスみたい)感じさせてくれるというのが面白いなあと思いました。こちらは動的な調和という感じがします。 「調和する」「バランスする」「崩れる」「流れる」。静的な状態と動的な状態では同じ言葉で表現されている時があっても持つ意味合いが全然違うんだなあ。 動きということ、流れという、とても根本的なところについての理解が深まりました。 遠方からお越しくださった山口先生、アシスタントをしてくださった先輩方、素晴らしい場所をお貸しくださった等覚院様、そして学びの場を共にしてくださった参加者の皆様、ありがとうございました!

統合

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ボディーワークとかセラピーの世界で良く「統合」という言葉を耳にするのですが、独特のニュアンスがあるようでいまいち腑に落ちきらないなあとずっと考えていましたが最近少しだけわかったような気がしています。 色んなことを経験して歩いた道のりをふっと振り返ってみたら、「そうか、そういうことだったんだ」って思う、あれが統合なのかな。 きっとそんな風にずっと過去の人生までが一気にざっと見渡せる感じがするのは、その歩みが螺旋階段を上るような軌跡を描いていたからなのだろうと思います。 そうやって自分の生の全体像が見えるような気がするとき、人生とか存在の意味をふわりと感じたりする。 そういう瞬間は私の生を確かなものにしてきたように思います。 統合、大事だなあ。

水路

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  感覚を学ぶのって、ちょっと水路を作るのに似ているなと思います。 一番最初は何もないところに浅い溝を掘るような感じ。 私はこの段階では先生のお手本を集中して見たり、先生の作ってくれる場にいることがとても助けになるような感じがしています。「稽古場ではできたのに帰ってきて一人で稽古したらできない」という事ってジャンル問わず凄く多くて、多分場を通じて先生から発生した基礎能力のおすそ分けで一時的にできるようになっているのだと思います。 何度も場を共にすることでちょっとずつ溝を深くしていくと、まぐれでもその溝に水が流れる頻度が上がってくる。 ちゃんとそれが水路になったら自動的にそっちに水が流れるようになるのだけれど、それまでは先生や場の力を借りて(そこと少し距離をとって自分で再現してみることも織り交ぜながら)ちょっとずつちょっとずつ、溝を水路に育てていく。 そこそこの年数生きているとどうしても生き方ってパターン化してくるところがありますが、そういうパターンの書き換えにもこういう感じのところがあるような気がします。 同じパターンの中では同じようなイベントばかりが起きてしまうから、たまにパターンを見直してみると違った風景が見えてくる。 せっかくだから、与えられた時間の中で色々な風景を見て「ああ、面白かった」と思って終わりたいなと思うのです。

腹側迷走神経

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いつもyieldのWS行くと、午前中の質問タイムとデモの間お腹が鳴るので「お腹減ってるのかな〜」と思っていました。 が、WS前に腸が動かない時期があった事で先日やっと気が付いたんだけど、お腹減ってるというより腸が活性化してめちゃくちゃ動いてるみたい。 ぐぉー!ギュルル…!ゴゴゴ…! すごい音をずっとさせているので、ちょっと恥ずかしいなあと思ってましたが、腸が元気に蠢いてると思えば「おっ!元気だね。好きなだけどうぞ!」という気持ちになってきます。 あまり質問タイムにリラックスというイメージがなかったけれど、ポリヴェーガル理論ではリラックスを司る副交感神経は腹側迷走神経と背側迷走神経の2つに分かれていて、腹側迷走神経は社会性に関わるので質問タイムに活性化してもおかしくはない。 自分の中に腹側迷走神経が活性化できない時期が長くあったので、セッションモードのときはともかく、日常モードでは人との交流で副交感神経が立ち上がるという意識がなかったみたいです。 自分の身体を通じて内側から変化を観察できるのはとても面白いし、自分自身のyieldが深まってきたんだなあという感じがします。 迷走神経の仕組みについて見つけた 記事 。改めて勉強になりました。

自分の感覚を信頼してもらうために

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自分自身の感覚を信じられるようになれることって、凄く大事なんじゃないかと思います。 ついつい自分よりも権威のある人の言葉を自分の感覚よりも大事にしてしまうことって多いなあと思うのですが、権威のある人と自分の感覚がズレたときに自分の感覚の方をなかったことにしてしまうと、なんとなく自信が持ちきれなかったり、自分の中にもやっとしたものが長く残るような感覚があります。 「我を通す」という意味ではなくて、現実に折り合いをつけつつも「自分が一番信頼するのは自分自身の感覚である」という風でないと苦しくなってきてしまう。 権威には色々な形があって、自分が所属していた権威から出たとしても、また別の場所で別の権威と同じような関係性を結ぶのなら、それは役者が変わっただけで同じ台本のお芝居を見てるようなもの。どうせなら違う台本に移行していく方が面白いと思うのです。 そういうところに移行するためには、術者と受け手が対等な関係性である必要があると思っています。極力術者が権威にならないように努力したい。 yieldの技術には対等な関係性(間合い)であることが含まれているので、それをきちんと活かすような施術をまだまだ探求中です。

変容

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私はこの2〜3年、田畑さんからyieldを含むロルフィング10シリーズを受けたこと、それから乳がんの治療を通り抜けた事をきっかけに、以前とはだいぶ違うものの感じ方をするようになったと思っています。 感じ方が変わったので考え方も変わったし、人付き合いの仕方や相手も変わりました。仕事、社会との関わり方、世界観…諸々変化したけれど、とても満足しています(納得できる生き方ができるようになってきた感じ)。 でも初めて田畑さんのところにセッションを受けに行った時は緊張したし怖いと感じました。長い時間をかけて生きのびるために構築してきたパターンを手放していくことを怖いと感じたのは自然なことではありますが。 深い変容に恐れを感じるのはきっと私だけではないし、もしもそのようなタイミングでお会いしたのだろうなあと感じられたら、その方が変容への道を歩むためのより良いお手伝いができるよう、勉強を続けていきたいです。

日向ぼっこ

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ここ数ヶ月、お腹が重くて腸の動きがあまり良くなかった。冷えている事も多いし。 何となく身体に力がない感じだなあと思うので、暇を見つけては「日向ぼっこしながら寝る」ということをしています。 お日さまの光にあたると身体が満ちて暖かくなってくるし、冷えたお腹に手を当てて内臓を感じてやると少し動きが出てきたりもしてとても気持ちがいいです。 運動でも日向ぼっこでも、自分の身体に意識をむけて良い感覚を感じるっていう事自体が心身の栄養みたいに働くところってある気がします。もちろん、施術も。

大人になる

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田畑さんからyieldを含むロルフィング10シリーズを受けてからたまに、自分の身体感覚の中に子供がいるなあと感じるようになりました。 10シリーズ中は立ってるときの脚の位置に、弱々しくて自信がない子供を。 それから1年数か月後の抗がん剤をしている時期、今度は自分の足裏の接地の仕方の中に、怯えた子供を見ました。 ずっと踵がうまく地面につかないなあと思う事が多かったのだけれど、それが恐れから自分の気配を消したい忍び足だったのだと気が付いて本当にびっくりした。 そうか。ずっと私、怖がってたんだな。大変だったものね。 でももう私は弱々しい子供じゃない。今の自分にしっくりくる歩き方を探したい。 どんな風に足を地面について、どんな歩幅で歩いたらしっくりくるかな? 感覚を探しながら歩いていたら足の裏が花が咲くようにふわっと開いて、地面にちゃんと足がつけるようになりました。嬉しくて2時間も歩いたっけ。 そうやって、ずっと一緒に歩いてきた子供の私は大人になりました。 身体との関係性が良くなってくると周囲が変わらなくても自分の中から変化が湧き出てくることがあって、そういう変化はとても面白くて内側からエネルギーを連れてきてくれるような感じがします。

ジャズセッション

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  ジャズピアニストの友人にお誘い頂いて、伊勢佐木町のジャズバーにセッションを聴きにいきました。 全然違う楽器がそれぞれの個性的な音を奏でながらひとつの音楽を作り上げていくのが面白い。 ガッと掴みにいったり、ゆるく抜いてみたり、留まって踊り、開放して流れてゆく。たまにリズムを乱して新しい流れをみんなで探しているような時もあったりして。 yieldのセッションも、こんなふうに身体と身体で響きあう事を楽しむものにしたい。 良い時間を過ごさせていただいて感謝です。 ちなみに写真は前に行ったオシャレカフェのコーヒーで、ジャズバーとは全然関係ないです(食べ物目の前にすると大概写真撮り忘れるので写真がない)。

生きる時間

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先日、島村一平さんという方が単細胞生物の死の画像と一緒に「死とは自己と世界の境界線がなくなるということなのだ」という ツイート をされているのを見ました。  あまりにも完全な風景を眺めていると「この風景に溶けて消えてしまいたい」と感じたりするのだけれど、あれは死のときに本当に起こる事なんだなあ。 世界とひとつになってゆく感覚を思う時、子供の頃に大好きだった本、ミヒャエル・エンデの「モモ」の一節を思い出します。 「あなたは死なの?」 マイスター・ホラは微 笑んでしばらく黙っていましたが、やがて口を開きました。 「もし人間が死とは何かを知っていたら、怖いとは思わなくなるだろうにね。そして死を恐れないように なれば、生きる時間を人間から盗むようなことは、誰にもできなくなるはずだ。」             

11/27 山口潤先生の古武術稽古会のお知らせ

11/27(土)に古武術でお世話になっている名古屋の山口潤先生をお招きした稽古会があります。 山口先生の「何か特殊な技能を身につけたからではなく、身体というものそのものが凄いのだ」という思想は、私がボディーワークを学びながら感じることそのもので、それを武という形で表現されている先生の研究には興味が尽きません。 「感じる」には自分の身体と向き合う事がセットになっています。「感じる」を通じて世界を再発見していくことで開けるものがあるのではないか、そんな風に思っています。 今回は川崎市宮前区の等覚院さんという、由緒あるお寺を会場としてお借りすることができました。とても素敵な場です。ぜひ、純度の高い山口先生の技の質感とあわせて稽古の場の雰囲気もじっくりと感じてみていただきたいです。 川崎稽古会 稽古日時:2021/ 11/27(土)14:00-18:00 会場:川崎市 宮前区「 等覚院 」 住所: 神奈川県川崎市宮前区神木本町1-8-1   参加費:6000円 ・お車で来られる方 駐車場あります(10台くらい) ・公共交通機関を使われる方 ①小田急向ヶ丘遊園駅よりバス、神木不動下車すぐ ( 時刻表 ) ②東急田園都市線梶ヶ谷駅よりバス、神木不動下車すぐ( 時刻表 )  ③溝の口よりバス 乗り場1、2、4、7。神木本町下車、徒歩10分。( 時刻表 ) 

お裾分け

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リラックスして無理のない在り方をしている人と一緒にいると自然に身構えが解かれて、幸せな気持ちになります。 何となく身体が落ち着いてくるにつれ人間関係が変化したように思うのは、私自身が無理のない在り方でいられるようになってきたからなのかなあと思ったりもします。 もしそうだとすれば、無理のない在り方の人が増えればその人だけでなく、周りの人にもリラックスや幸せな気持ちのお裾分けが発生するのかな。 そうだといいなと思います。

冬の間合い

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  先日、施術の先輩にお蕎麦屋さんに連れて行って頂きました。 灯油ストーブの匂いと暖かい空気。 田舎蕎麦のつゆからほのかに柚子の香り。 先輩の素朴で暖かいお人柄もあり、なんだか年の瀬みたいな気持ちになりました。  冬は身体も気持ちも空間も少しコンパクトな感じになるけれど、その分なんだか人との距離が近くなる感じがします。 冬の楽しみ、かな。 ちなみに写真はここでお蕎麦食べたのでのせてみたけど、先輩に連れて行って頂いたお蕎麦屋さんではありません。

冬休み

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  今年最後のUNDOが終わりました。 晩秋の青空の下、そして星空の下で静かなセッションの時間を過ごさせていただいたこと。 ゆるやかで穏やかな空気の中で、様々な方と一緒にお茶を飲んだりお話して過ごしたこと。 本当に豊かな時間でした。 UNDOはしばらく冬休みに入りますが、また春になったら再開予定です。暖かくなりましたらまた遊びにいらしてください。個人セッションは冬の間もしておりますので、ご興味感じられた方は川崎市内のセッションルームにお越しください。 それではみなさま楽しい冬をお過ごしくださいね。ありがとうございました。

イメージを食べる

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  食べる遊びでふと思い出したのですが、抗がん剤をしていた時味覚障害が出ました。 きゅうりを齧ってみたら甘いアルミホイル食べてるみたい。 ハンバーグ食べたら、タワシを口に入れたみたいなわしゃわしゃした感覚。 食べ物を口に入れるたびに「なんじゃこりゃー⁈」となり、納得いかずに何度も口に運んでいたら体重が増えました。 食べる時って口に入れる前から味の予想をしていて、どこかその予想の感覚を食べてるみたいなところがあるんだろうなあと思います。 あの頃は食事のたびにイメージではなく、目の前にあるものの味を感じようとしていて「何かの修行みたいだなあ」と思っていたっけ。

食べるという遊び

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  「食事をするときは、食べることに集中しなさい」みたいな話は聞いた事がありましたが(多分、マインドフルネス的な意味で)、そこに面白さが見出せなかったのであまりしてきませんでした。 でも、食べるときに食べ物の方じゃなくて食べてる時の自分の身体の反応を見るということをしてみたら、私に取って遊びにできるんだなあと思いました。 唾液が分泌される感覚、胸がひやりとする感覚、栓が抜けたように一気に胸郭と頭部を暖かいものがめぐる感覚、背中が緩んで身体の中心に細い糸のようなものが現れたような感覚。 よく眺めてみると何気ないような事にも身体は色々と変化してるんだなあ。 自分の身体と仲良くなってくると、遊びが広がります。

新鮮な世界

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  河原に薬草茶遊びをするためのオオバコを摘みに行きました。 オオバコの隣に座って同じ風景を眺めてみる。 少し遠い鳥の鳴き声。 肌をなでてゆく風。 高くて真っ青な空。 日の光が身体を暖めてくれる。 土手の上では警察車両が交通違反の車を捕まえている様子。 散歩している人。 土手沿いの道を並んで信号待ちする車たち。 ゆったりとした自然もあれば、人間の世界も忙しそうなのからのんびりしたのまであって、色々なトーンのものが一緒にある世界を面白く眺めました。 なんだか子供の頃みたいな感覚だなあと思ったけれど、子供の頃はこうやって色々なものを「あれはなんだろう?」と新鮮な距離感で眺めていたのかもしれないなあ。

眺める

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yieldのセッションの中では、色々な感覚が出てくることがあります。 色や風景、イメージのようなものを感じる方もいらっしゃるし、流れ、温かさ、冷たさのようなものを感じられることもあります。肉体の動きを感じられることも。 私自身が最初の頃にそうだったのですが、その感覚を「この感覚で正しいのだろうか?この感覚はいい感覚なのだろうか?悪い感覚なのだろうか?」とジャッジしてしまうのは少しもったいないな、と思います。 日常の中では判断をせざるを得ないことが多いですが、セッションはそこから離れてただ感じることができる時間です。身体の緊張がそうさせるという部分もありますが緩んでくれば少しづつ「ただ眺める」という事ができるようになってくると思います。 そうやって感覚を通じて自分自身と出会うこと、身体に寛いで感覚を眺めることを楽しんでいただけたらいいなあと思います。

自分を知る

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「自分はこういう人間です」という定義をすることは「自分って何者なのか」って事にも繋がって興味を感じたりするものだけれど、リアルタイムな自分からは常にずれていくし、必ず定義にはまりきれない自分が出てくるように思います。 じゃあ自分ってどんな人間なのか。 ひとつひとつ経験してみて、自分がどう感じるかを知っていくことが「自分を知ること」になるのではないかと思っています。 そうやって探していたら(身体感覚が面白かっただけで、これはどちらかというとおまけですが)「自分」って固定的なものじゃなくて都度立ち現れるものなんだなあと感じるようになりました。 固定的じゃないのなら「本当の自分」というものもなくて、ただ好ましい自分、自然体な自分が現れるような環境だったり人だったりに身を置いてやればいいと思うようになりました。それはぬるま湯的環境に身を置くという事でもなくて、ただ不向きな事、不自然なことをしないというだけのことなのだけれど、とても生きやすいです。 そしてそれは、1番良い状態の自分自身をご縁のある方達にシェアしていく試みでもあります。 みんなが我慢や努力をして同じ環境に合わせていくのではなくて、自分に合った環境や合った人たちと楽しくて良い状態でいる事の方が世界全体を考えた時にもプラスなんじゃないかなあ。 「自分に合っているかどうか」は、その人が感じること。他人は代わりに感じることはできません。 自分を感じること。大事にしてくれる人が増えたらいいなと思います。

寒さ

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那須にキャンプに行きました。 日が落ちるとかなり冷え込んできました。焚き火の炎に照らされた場所だけが熱く、全身が温まらなくて寒い。 yieldのモードに切り替えてみたら、炎に暖められた風がふわっと下から上がってきて肌を包むのが感じられました。あ、こっちの方が寒くない。匂いも煙の匂いを感じていたのが、木の芳香が入ってくるようになって心地よい。すっかり気持ちよくなって、そのまま居眠りをしてしまいました。 朝目が覚めて(夜は焚き火消してからちゃんとテントに入って寝ました)、一人で散歩に行ったときに森にyieldしてみました。 あれ?やっぱり寒くない。 そうか。「寒い」というのは単純に「気温が低い感覚」ではなくて防衛反応なんだなあ。私は物凄く寒さに弱いのですが、それは過剰防衛してるからというところもあったのかもしれない。防衛反応を解くと、身体に熱が巡るスペースができるのと、「寒さ」が単に「気温が低い」感覚に近づくので楽なんだと思います。 自分が身体感覚だと思っていたものの中に、既に評価・意味づけがなされたものが混入してるのかも?と思うととても面白い。今年の冬は寒さで遊ぶ機会を作ろう。

思い出す

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  最近よく、自分が良いセッションを受けたときの良い感覚を思い出します。 抗がん剤していた頃、わっと一気に頭に熱いのが登ってきてそのあと急にひやっとするというのがありました。その感覚を感じると高校生の頃に電車の中で具合が悪くなって倒れてた時の感覚が呼び覚まされて「倒れそうで怖いな」って思っていましたが、そういうフラッシュバック的なものの良い感覚バージョンって感じ。 温かいものが全身をめぐる感覚。 首の付け根が緩む感覚。 施術受けていた時の気配と一緒にふわっとそれが起こります。 「考える」と「思う」というのはそれが存在する階層が違うような気がするのですが、身体性があるものかないものかでそれが分けられるとしたら、この「思い出す」で、自分がどの階層のことをしているのかが判別できて稽古に使えるなあとちょっとホクホクしています。 いい感覚を思い出すことって回復モードに入ることにも繋がっているように思います。身体で遊ぶことのひとつとして、試してみてはいかがでしょう。

秋の森

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  朝、森の中で視野を開いて樹々を眺めてみました。 金色に色付いた樹々の中をゆっくりと落ち葉が舞い落ちてきて、まるでスノードームの中にいるみたい。 色の鮮やかさやコントラスト。見えるもの、見えないもの。視力で測れるものではないかもしれないけれど、コンディションで風景って変わるなあと思います。

望み

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ずっと前、古武術の稽古の時に山口先生が 「バランスを崩すまいとすれば居つくだけだ。でも、自分の望みがきちんと見えていればバランスを崩したときに自然と自分の望みに身体が向かう。要は何を望むのかだ。」 とおっしゃっていたことがあります。 自分の病気のことを振り返ってみると、ほんとそんな感じだったなあと思います。 同時に探っていくものではあるのでしょうが、優先順位として、うまくやるスキルよりもまずは自分が何を望んでいて何をしたくないのか(私はこれはそう決めるというよりも、自分がどんなものにどんな反応をするのかを観察する中でなんとなくわかってきたことのように思います。今思えば身体に聞いてたんだと思う)を重点的に見ていく方がいいのかもしれません。

願い

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昨日は中学生の頃から大好きなさだまさしさんのコンサートに行ってきました。抗がん剤が終わったら自分への快気祝いに行こうと思っていたのがコロナでずっと流れてしまっていたのでとてもうれしかったです。 久しぶりにさださんの歌を生で聞いていて感じたのは、さださんは歌でもトークでも会場の一番後ろまで「届けて」いるのだなあということです。 パントマイムをやっていたので、「気持ちを込めた表現が必ずしも伝わるとは限らない」ということは感じてはいましたが、じゃあ伝えるものが何もなくて身体だけがきっちり動いてれば興味が持てるかといえばそうでもない。 昨日さださんのコンサートで感じたのは、「願い」とか「想い」というのは空間的なもので、そこに包まれるとじわっと届いてくるのだということ。 そして「願い」や「想い」は「思想」とは別の層にあって、身体的なものなんだろうなという気がします。もしかしたら身体化した「願い」や「想い」を「まごころ」というのかもしれないな。 素敵な時間だったなあ…。 ちなみに写真はグッズの、浅田飴ならぬ、「あ、さだ飴」です。

見ることと静寂

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抗がん剤も終わりに近づいたある日、公園を散歩していたら風景の見え方がいつもと違う気がして不思議に思いました。なんだかVRの映像を見ているみたい。 なぜそう感じるんだろう?と数日考えて、実はあまり見るという行為をしてなかったということに気が付きました。そしてそれはどうやら自分の中の静寂と関わっているみたいだということも。 考え事しながら歩いているときに知人に何度も声を掛けられるまで気がつかないことが何度もあった。そんなときの視界を思い出そうとすると殆ど無かったんじゃないかという気がします。音もしかりで、考え事していると話しかけられても気がつかなかったり。 頭の中で思念を回し続けているとそれ自体が雑音になって外の情報がうまく入ってこないのかなと思います。 静寂のトーンが出てきて自分の内側が静かになってくると、外の物がよりきちんと見えるようになってくるし、その分だけ物事に対する判断もしやすくなってくるように思います。 生きることはシンプルで、そんなに難しいことじゃなかったのだなあ。

オオバコ

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河原に野草を摘みに行きました。 オオバコという野草の隣に腰を下ろして、オオバコがどんな風景の中で生きているのかを一緒に感じてみる。 大地がどーんと空を受け止めているような力強い風景。 大地に全力で身を任せているような感覚ってこんなに力強いものなのかと驚きました。 花壇に生まれた植物みたいな華やかさは微塵もないけれど、固い地面に根を下ろしているからこその大地との繋がり。自分の置かれた場所で、静かに精一杯生きて自然界での役割を果たしている。なんだか勇気づけられるものがありました。 生き物それぞれ持っている風景が違い、持っている豊かさが違うんだなあ。

内臓感覚

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どうやら内臓の不快感を「焦り」と解釈していたようだと気がついたのでその感覚を観察するようにしていたのですが、「不安」も似たような内臓の不快感を解釈したものっぽいなと思うようになりました。 昨日は寝る時にこの内臓の不快感を感じたので、今学んでいるT&Fという経絡を使った治療で内臓を手当てしてみました。 どうやら腸が動き始めると不快感が薄まってきて気持ちも切り替わるみたいで、意識?自律神経?のモードもそれに連れて切り替わって眠りに落ちました。 焦りや不安が内臓感覚だとしたら内臓へのアプローチでどんな風に変化するのか調べたら面白いな。これでしばらく遊ぶネタができました。 コンディションの悪さも、観察してみると面白いなあ。

固定観念をはずす

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先日また 八光流柔術の広沢成山先生 に個人稽古をつけていただきに行きました。 手首足首の脱力を教えていただいて、力の伝達という事について目からうろこでとても面白かったのですが、いざ帰宅して手首の脱力の稽古をし始めてみたら早速混乱してきています。 私は「手首の力を抜いて手の平を動かす」ということをやってみたとき、「手首を支点にして手のひらを動かす」ということをしてしまいがちなのですが、「手首の脱力」ということを考えたらこの動きにはなるはずがない。 広沢先生に教えていただいた動きは「手のひらを動かす」という動きなのですが、多分自分の中にまだまだ「(意識して力を伝えるようなとき)動きというのは関節を支点にして起こるもの」という固定観念があるのだろうな。 動きのトレーニングは自分の固定観念を外してゆくことでもあるのがとても面白いです。