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セッションについて

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  セッションについて 外から決められた「正しい形」にあてはめなくても、身体には自らバランスを探して適応していく力があります。 セッションでは心地よい間合いで起こる自己調整とゆだねて動かすムーブメントワークを組み合わせて深いリラックスと、しなやかで自立した身体を学んでいきます。 ☆場所:神奈川県川崎市 溝の口、登戸、向ヶ丘遊園よりバス(ご予約時にお知らせ致します)。駐車場はありません。近隣の駐車場をご利用ください。 日によって中目黒より徒歩のセッションルームでもお引き受けできることがあります。ご希望の際はお申し込み時にお知らせください。 ☆営業日:対面セッション 火曜日〜土曜日(祝日除く)10時~17時 ※オンラインセッションについては19時開始枠もあります。 ※対面・オンラインともに上記以外の曜日についても調整可能な場合がございます。ご相談ください。 ☆料金(2025年より) ・対面セッション 10000円/1回(60分~90分程度)  ・オンラインセッション 5000円/1回(60分程度。お身体の反応に応じて前後します) ※3シリーズで全体(背面、側面、腹面)にゆだねる動きを引き出します。また、より統合を深める8シリーズもあります。 1回でお受けいただいても効果は出ます。また逆にシリーズを終えた後もお受けいただいて深めたり調整として使っていただくこともできます。 ※価格については随時見直しをさせていただきます。 ※お時間はあくまで目安です。 お問い合わせ・ご予約はHPよりお願いします。 https://www.resonanceblue.com/

背骨

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  背骨は24個の骨でできているけれど、本来はこの骨たちが構造なりにちょっとずつ動いて全体の動きを作るもの。 でも、日常動作はできていても背骨があまり動かない人は実はかなり多いです。 動けない場所があるなら、その分をカバーするために動ける場所がキャパシティ以上に動いて全体をカバーする。これが痛みや故障の原因になる。 背骨の中には運動神経、感覚神経、自律神経の役割を担う脊髄神経が通っている。 調子が悪い時に背中を捻じる動きをすると視界がクリアになったりちょっとすっきりしたりするのは、恐らく脊髄神経に刺激が入るからなのでしょう。 背骨が動く状態に整えてやると日常のちょっとした所作でも脊椎神経に刺激が入って身体の底上げをしてくれる。地味なようですが背骨が動かせるって大切です。 過緊張と自律神経の不調がセットになりがちなのは、こんな理由もあるかもしれません。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

選びなおす

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人と深く関われば摩擦が起こることがあるのは当たり前なのだけれど、そういうとき自分の反応を観察すると、今まで反射的に応答していたものを選択しなおすということができるように思う。 今の私(自分が望む結果を得るために選択しようとしている、割と全体が見えてる)がまずあって、反応1(イラっとした)、反応2(迎合したい)、反応3(どうでもいいや)みたいな感じで沢山の反応が同時に起きている。この反応を観察していると過去にこういうことが起きていたんだろうな、みたいなものがうっすら見えてくる。 言い返してみたら物凄く怒られたとか。しわ寄せを引き受けたらそれが固定化されてゴミ箱みたいな扱いを受けたとか。説明しようとしたけれど聞いてもらえなかったとか。 フラッシュバックと言えばフラッシュバックなのだけれど、巻き込まれずにとりあえず置いておけると、反応に巻き込まれるのではなくて今の私がフラッシュバックも意見の一つとして入れながら選択しなおす余地が出てくる。 今目の前にいるこの人は、過去の登場人物とは違うので、違うリアクションを返してくる可能性が高い。今目の前にいる人はどんな人?私はどうしたい?どんなバランスがいいだろう?   反応が語っているもの「もう傷つきたくない」とか「怖い」とかそういう、昔の私が抱え込んだ気持ちとコミュニケーションをする。多分、このコミュニケーションが大事で、何を選んでもいい。その結果を引き受けるだけのことだし、それは子供の頃みたいに何か一つでも失敗したら大惨事が起こるというようなことではない。 少し時間はかかるけれど、そうやって自分と折り合いをつけていくことができるとフラッシュバックが起きてもあまり困らない。この自分の中に起こる反応をまとめていく感じは身体を動かす時に自動的に出てきてしまうバラバラなベクトルの動きをひとまとめにしていくこととよく似ている。 自動的に起きてくる反応やパターンと間合いを保つことは、肚の感覚や自分の中心の感覚によってここに留まり続けられることで可能になる。 自分の身体とつながることは自分の心を大切にすることとつながっている。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue  

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身体に意識を向けて静かにしているとふわっと明るくなる感覚がすることがあります。 日が差してきたのかな?と思うような、柔らかくて暖かい光に包まれるような感覚。 日向ぼっこをしているよう。 セッションの中でも「明るい感じがします」とおっしゃるクライアントさんがいらっしゃいますし、私自身もそれを感じた経験があります。 慣れてくると日常の中でも、静かに身体に意識を向けているときに起こっていることに気がつくようになりました。 恐らく脳や神経系の中で何か良い変化が起きているのだと思いますが、心地よさとともに身体の緊張が抜けていくときに起きているようです。とても気持ちが良いので、大体そのままうつらうつらしてしまいます。 思い出せば私は子供の頃から緊張や不眠傾向が強かったのですが、ボディーワークを受けるようになってから徐々にその傾向が弱まってよく眠るようになりました。日中も疲れたら昼寝をするし、眠ると身体の緊張がリセットされます。 休息の質が上がることは、身体も心も回復や成長を助けてくれますよね。 そういえば、様々な文化や宗教の中で「光」は特別な意味を持ちますが、それとこの光の感覚ってきっとつながっているのだろうなあ、と思ったりもするのです。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

余白の力

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 余白があると、ひとはそこに何かを作りだす。 想像力をつかって。 余白を埋めてしまわないということは、その人の想像力が働く余地を残しておくということ。 内側から生まれてくるものこそ、本当の力だから。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

言葉の間合い

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作家のカズオ・イシグロの作品が好きです。 特徴は独特な一人称の視点。最初は主人公の一人語りがとても冗長に思える。なんでこんなことをつらつらと話しているんだろう? でも読み進めていくとなぜ主人公がどうでもよいようなことを長々語らなければならなかったのかが明らかになってくる。 この語りは読み手に対してという感じもあるし、半ば自分自身に対してな感じもあって、主人公の眼差しを介して物語を体験していく、触覚的な読書体験だなあと思います。 そういえば、カズオ・イシグロの作品は映像になっていたけれど、映像ではカメラは三人称の視点にならざるを得ない。どんな作品なのだろう? 興味がわいたので映像化された作品「日の名残り」を見てみました。 アンソニー・ホプキンズが相手役の女性とともに微妙な心理描写を見事に演じている。人の心の機微や時代のなかで翻弄されていく人々の様子が感じられて面白かったけれど、やはりカメラのように外側から状況を見て理解していくことと状況の中に身を置いて感じていくことは全く別の経験を生むのだなと思いました。 これは体験すること全般に言えて、身体の体験もともすると第三者的に理解していることがあるように感じます。そこに身を置いて感じているときって案外「わからない」ものだったりする。 自分の中に留まって感じ続けていると、あるときにそれが繋がって全体像が見えてくる。この「あっ!」という自分なりの発見、自分の内側とつながる創造的な経験は自信につながるように思います。 少し話が変わりますが、文章も書き手がどこにいるのかで随分と受ける印象が違います。 一人称の視点、自分の中にしっかり納まって身体感覚を大事に書くと、読み手と書き手が隣に並んで同じ風景を眺めるような親しさを感じられるように思います。写真の中に撮り手の眼差しを感じることがありますが、ちょうどあんな感じになる。 三人称の視点では向かい合って話をするような感じ。 言葉にも間合いがある。面白いな、と思います。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

お茶碗からバウンダリー

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先日、猿手というものを教わりました。 人間は親指と残り四指を向かい合わせてものを握りますが、猿は親指と残りの四指を平行にして使っているのだそうです。 親指とのこりの四指を向かい合わせて使うと道具を器用に使える一方で相反する向きのベクトルの力が働いて手首から肩まで緊張しやすくなりますが、猿のように手を使ってコップやペットボトルを持ってみると手のひらでものを持つような感覚が出てきて指や腕の力が抜けます。 以前習っていた茶道でのお道具の扱い方。古武術で教わった腕をらせん状に回して使う(着物のたもとを抑えて動かすような)動き。猿手のこの感じは、和の所作の中に多くあるように感じます。 この手でお茶碗を包むように胸の前で持つとほっとします。 「私」がお茶碗を包んでいるようでいて、同時に「こころ」が包まれてここにあるような。自分がここにいる、という感覚がじんわりやさしく感じられてきます。 そうやってお茶碗に触れていると「表面を大切に扱って、内側まで入り込まない」ということをふっと思いました。 人と人との関係性もそうかもしれない。 他人の内側をむやみにのぞき込んだりしない。表面を大切にするための技術がお作法とか礼儀とかいったもので、そうやって表面を大切にすることで適切な間合いが生まれてくるというところがあるのかもしれない。 お茶碗からバウンダリー。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

いのちの輪郭

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高校生の頃、山岳部に所属していました。 その頃の私は生きていることに疲れ果てていて、それでなんとなく自分の命がかかるような体験を求めていたようなところがあったと思います。 夏の合宿で登った北アルプス。おぼろげな記憶をたどると、燕岳、大天井岳、赤岩岳、槍ヶ岳から徳沢に降りて上高地まで歩いたのだと思います。 初めて森林限界を超えて歩いた稜線。青の底に宇宙の黒を感じるような空の色。 全てがむき出しで逃げ場もなく自然と向き合わざるを得ない。 滑落の危険、落雷の危険、暑さや寒さ。危険に晒されれば「怖い」と感じる。そう感じる自分はやっぱり生きたいのだな、と自分の心よりも身体からやってくるものを信頼しようと思った。 身一つで歩き切るしかない山歩きは、生きていることに疲れていた私の命の輪郭をくっきりと浮かび上がらせてくれました。 山の朝は早い。 2時に起床して、3時に朝食、4時にはテントを畳んで出発する。 起床してテントを出ると頭上に満天の星、天の川。 出発する頃には雲海が広がって、やがて朝日が昇ってくる。 大きな大きな宇宙というシステムの一部としての私。 昼間道端で死んでいた野ネズミやミミズ、家族で歩き回っていた雷鳥と同じように、私もただその一部としてここにあるのだと知りました。 とても壮大で、同時にとてもちっぽけな「私」というもの。生き物はみんなそういう側面を持っている。 あのとき山で感じた美しさは私が人の身体を見るときの原点のひとつ。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue