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5月, 2021の投稿を表示しています

間の人

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yieldを学んでいたら、自分という個体が1個の細胞みたいになれたらいいなあということを思うようになりました。 生活しているとどうしても物事に優劣というものをつけたくなってしまうのですが、きっと細胞には優劣なんかなくて、それぞれが関係性の中で動きながら身体という全体を形づくっているのでしょう。 私も人と比べての優劣を脇に置いて私なりに生きてゆく事ができたら、出会う人やものたちともっと豊かなものを形づくっていけるんじゃないだろうか。 少し苦しくなってしまったときは、自分が1匹のアリだったらどんなかなあ、なんて思いながら。

うねり

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 病気のときって不具合が気になりがちだけど、それと同時にある身体の中に回復に向けて動いているもの、波のうねりみたいな力強いものを見つけると嬉しくなります。 自分の身体の中にも大きな自然と同じものが働いているんだなって感じがして、頼もしい。 どんな風に捉えるかで、身体は色々な風景を見せてくれますね。

5/8 UNDO

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 5/8の「UNDO 静かな土曜日」では2つのセッションをさせていただきました。 実験的に進めていくセッションを楽しんでいただけて、私もとても充実した時間を過ごさせていただきました。 身体感覚に興味をお持ちの方、空間の感覚を楽しんでみたい方、ぜひ遊びにいらしてください。次回は6/12です。 http://newsdee131.jugem.jp/?eid=28&pagenum=1#gsc.tab=0

判断を離れる

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 セッションでは時々「身体にどんな感覚がありますか?」という事を受け手の方に訊ねます。 受け手の方の身体の状態を把握するためという部分もないわけではありませんが、受け手の方がご自身の身体に意識を向けてみる事を促している意味合いが大きいです。 答え方には個性が現れるなあと感じますが、現れた身体感覚をジャッジしたり何かの枠に振り分けたりするような見方で捉えるよりは、その感覚の質感に意識を向けて頂くとより変化が促されるのではないかと思います(自分がyieldを受けている時の感覚からそう感じます)。 私たちは日常生活では判断する事を求められる事が多く、それが自動化してしまっているところがあります。しかし、判断というのはどこかに基準を設けて初めて成立する事で、視野が広く無数の基準がある事に気がついてしまうと混乱を、1つの基準に頼り過ぎてしまうと執着を生んでしまうように思います。 自動化というのは定型のパターンにはまり込んでしまう事でもあります。パターンを変えてみるためには自動化を一旦緩めて、自分で選択するためのスペースができると良いのではないでしょうか。 判断から離れて一旦物事をありのままに眺めてみるためには、「質感を感じてみる」という事がとても役に立ちます。そして、質感を感じられるためには安全・安心の感覚がベースにある事が大きな助けになります。 yieldはガイド付きのマインドフルネスのような側面がありますが、それはこういうところなのかなと思います。

自発的秩序形成

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先日キャンプデビューしました。 鳥の声と肌寒さで目が覚めてテントから出た時に見た、柔らかに明けてゆく空。 夕暮れの浜辺で遊んでいたら、小さなイワシの群れがきらきら輝く身体で波と一緒に打ち寄せてきたり。 自発的秩序形成ということについて考えてしまいました。 物質の塊に過ぎない私が息をして代謝して、どういう訳か意識まで持って生きている。それは 創発 、物質の自発的秩序形成によるわけらしいけれど、「私」という個体のふるまいもまた、社会であったり集合意識であったり、色々なものを創発して秩序を形成している。そうやって全てが入れ子構造で秩序を作っているとしたら、その秩序はどこまで広がっているんだろう? 宇宙はエントロピー増大の法則によっていずれ死に向かうっていうけれど、その宇宙の死の外側には入れ子は存在しないのかな? 私の存在はあまりに小さ過ぎてそんな長いスパンのことなんか感じ取れるわけもないのだけれど、個々の存在の間に立ち上がるダイナミクスがいのちなんだとしたら、いのちって個体の中に閉じてる訳じゃなく、ずっとずっと遠くまで広がっていくものなんだろうか。 私自身のいのちもそのような大きな秩序の一部としてあるのだとしたら、生き物の定めとして老いや病や死という事を抱えながら生きなければならないとしても、もっと安心して生きても良いのではないか、そんな風に思います。