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いのちの輪郭

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高校生の頃、山岳部に所属していました。 その頃の私は生きていることに疲れ果てていて、それでなんとなく自分の命がかかるような体験を求めていたようなところがあったと思います。 夏の合宿で登った北アルプス。おぼろげな記憶をたどると、燕岳、大天井岳、赤岩岳、槍ヶ岳から徳沢に降りて上高地まで歩いたのだと思います。 初めて森林限界を超えて歩いた稜線。青の底に宇宙の黒を感じるような空の色。 全てがむき出しで逃げ場もなく自然と向き合わざるを得ない。 滑落の危険、落雷の危険、暑さや寒さ。危険に晒されれば「怖い」と感じる。そう感じる自分はやっぱり生きたいのだな、と自分の心よりも身体からやってくるものを信頼しようと思った。 身一つで歩き切るしかない山歩きは、生きていることに疲れていた私の命の輪郭をくっきりと浮かび上がらせてくれました。 山の朝は早い。 2時に起床して、3時に朝食、4時にはテントを畳んで出発する。 起床してテントを出ると頭上に満天の星、天の川。 出発する頃には雲海が広がって、やがて朝日が昇ってくる。 大きな大きな宇宙というシステムの一部としての私。 昼間道端で死んでいた野ネズミやミミズ、家族で歩き回っていた雷鳥と同じように、私もただその一部としてここにあるのだと知りました。 とても壮大で、同時にとてもちっぽけな「私」というもの。生き物はみんなそういう側面を持っている。 あのとき山で感じた美しさは私が人の身体を見るときの原点のひとつ。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

目線と運

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セッションの後に「目線が上がる」方がいらっしゃいます。 私は目線が上がることには大きな意味があると思っています。 目線が下がってしまうと気持ちが内向きになってしまうように感じるし、そういう時は自動思考にも飲まれやすくなるように思います。 目線が上がると外の世界に意識が向く。自信の感覚も得られるでしょう。 遠くから苦手な人が歩いてくるのにも早い段階で気がついて、進路変更することができるかもしれない(笑) 遠くに好きな芸能人がいることに気がついてサインをもらいに行けるかもしれない(笑) 危険もチャンスも、目線が上がって外の世界に意識が向くからこそキャッチすることができるのだと思います。 誰かと目が合って仲良くなることも下を向いていたらなかなか起こらない。 ご縁も運も、目線と関係していたりするかもしれないな、なんて思うのです。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

小さな偉業

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先日セッションさせていただいた自閉症と重度の知的障害のあるお子さん。 親御さんがいつもお子さんの手や足にマッサージをされているのだそうです。 そういう風に親御さんが「触れる」という窓を開けておいてくださることでセッションにすっと入れるということがあるのだとボディーワークの大先輩から教えていただきました。 きっと親御さんはそんな風に思ってされていたわけではないのだと思います。 でも親御さんのタッチがお子さんにとっては他者や世界とつながるための通路になっているのだということ、セッションをさせていただいた後ではよくわかる。 世界は小さな偉業に満ちている。 そのことに気がつけたらいいな、と思います。 そして、自分のささやかな偉業にも誇りを持っていたいと思う。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

ふたりでおどる

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自閉症と重度の知的障害のあるお子さん(Aさんとします)にセッションをさせていただきました。下書きを読んでいただきご許可を頂いて私の経験を書かせていただきます。 姿勢の悪さと身長が伸びないことを親御さんが気にされてご依頼いただきました。 場を整えてつながりを作ってから少しずつ触れていく。 お身体を動かしてみるとノイズのような不随意な運動が沢山ある。でも身体が行きたいところ、行きたくないところを感じながら対話するように動かしていくと、最初は雑誌に夢中だったAさんが雑誌に目を向けたまま「あれ?」とこちらに意識を向けられたのが分かりました。 そのまま身体で対話を続けていくと、ノイズの向こうにAさん自身がいるのが感じられるようになってきました。遠くから聞こえる微かな音楽を聴くように耳を澄ませてみる。Aさんも目を細めたりして、同じ音楽に耳を澄ませていらっしゃるように見えました。 リラックスしたときでるというよだれがでたり、ご機嫌な時にされるという首振りの動きが出てきたり。 姿勢を変えて座って頂いて腕を動かしていると、だんだんとノイズが背景になっていってAさんと直接お話している感じになってきました。雑誌から目が離れて、窓の外の夕暮れの景色を少し不思議そうに眺めているAさんの姿は何か大切なことを思い出そうとしておられるように見えました。 窓の外の空間の広がりを感じた時の感じに腕のポジションを動かしてみる。 よく晴れた夕方の空を一緒に眺めている身体を一緒に味わう。 右腕を動かすと指をさすような手の動きが出てきたので、窓の外の見ておられる場所を指さすように動かして意識・意志・動きが調和するようなポジションを探す。そのままそっと身体の正中線を超えて手を反対側の口元へ誘導して何度か当ててみる。 ふっとAさんが振り向いて私の方を見てくれて目が合ったとき、内側の世界と外側の世界、両方がつながって「出会えた!」という感じがしました。 フェルデンクライス・メソッドではセッションを「二つの神経系のダンス」と言ったりするそうですが、ああ、この感じなんだ!と思いました。 そこには「する→される」の関係はなくて、Aさんが私の誘いに応じてくれたから今日の夕空を一緒に踊ることができた。存在に触れることは存在に触れられることでもあるのだと知ったとても深い体験でした。 生命はそれ自体が自律性を持つ。身体的知性と言...

バウンダリーと背骨

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「 人間脳を育てる 」の中では「脊椎のありかがわかり、自分で動かせる」ことが「自分という人間がわかる」「信念の土台」という風に書かれています。 自分の経験上もありそうな感じがするのですが、それはどうしてなのだろう? 赤ちゃんの発達を考えるとき、お座りの段階まで進むと脊椎が重力方向と一致する。 このとき、空間の知覚が平面的なものから三次元的なものに変わる。 そうすると、前、後ろ、横、上、下と全方位に空間認知が広がって、自分という座標点が認識できるようになる。 自分で移動する可能性が出てきて、能動的に働きかけることができるようになる。 それによって自分とそうでないものの区別がはっきりしてくる。 重力方向と背骨の方向が合致することで空間認知が変わり、移動可能性が出てきて、それによって世界とのかかわり方、自己認識が変化していく。 バウンダリー(自他の境界)というのがありますが、まず自分という認識がはっきりしていないと境界は引きようがない。心理的な自己探求も役に立つと思いますが、もしかしたら身体の感覚を育てていくことでバウンダリーの基礎の部分を補強できるなんてこともあるかもしれません。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

人間脳を育てる

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灰谷孝さんの書かれた「 人間脳を育てる 」を再読しています。 読みながら新しい発見が色々とあってとても面白い。今回は自分の経験も踏まえて、発達障害と複雑性PTSDが似たような症状を持っていたり重なっていたりする理由について考えることがありました。 この本では子供たちは自分の発達を促す遊びや動きを本能的に知っていて、それを邪魔したり止めたりせずにやりきらせることが発達を進めるのだと書かれています。 私自身も子供のころも大人になった今でも、これがやりたい!とドはまりして飽きるまでする遊びというのが時々あるので、なんとなく心当たりがあります。 ところで、 ポリヴェーガル理論 では「遊び」「好奇心」は腹側迷走神経複合体が活性化されたモードだと言われています。 とすると、自分の発達を促す遊びや動きが本能的にでてこられるようになることや遊べることで神経系の発達が進行するには、そもそも腹側迷走神経複合体の活性化が起こっている必要があるのではないでしょうか。 幼少期に逆境が多いと交感神経や背側迷走神経のモードで過ごす時間が多く、腹側迷走神経複合体のモードも立ち上がりにくくなる可能性が高い。そうすると原始反射の統合的な意味合いでの「遊び」ができにくくなるのではないか、と想像します。 もしそうだとすると、複雑性PTSDがあるような生育環境がある人は遊べなかったことでで未統合の原始反射が残っている部分が多くあるのかもしれません。 また、「人間脳を育てる」には原始反射の統合が学習能力・コミュニケーション・情緒にも関わってくることが書かれています。この3つがうまくいかないとよりPTSDにつながるような体験をしやすくなりそうだし、情緒の処理がうまくいかないと流せずに残る感情も多く持ちやすいのかもしれない、と想像します。 最近セッションの最後にほんの少しだけ発達に関わるようなムーブメントを入れています。これによって反射の統合の部分で安全・安心な感覚や自分とつながりなおすことを加えられると考えています。 そういえばセッションのとき楽しそうにされたり笑いだされる方って結構多いのですが、もしかすると腹側迷走神経複合体が活性化されて遊びのモードが立ち上がっているのかもしれませんね。それは思ったよりずっと深い意味のあることなのかもしれません。 余談ですが、灰谷さんには一緒に過ごさせていただいた時間の中で言...

流れてゆく風景

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床の上を転がったり、這いずったり。 横向きになって身体を伸ばしたり丸まったりしていたら、不意に膝をおでこに近づけたくなりました。その姿勢をとってみたら両手で頭を抱えてみたくなった。 最初は胎児かな?と思ったけれど、頭を抱えてみたら何人もの人に蹴飛ばされながらなんとか身を守ろうとしているようなイメージが出てきました。 ぎゅっと身を固くしてお腹の奥の方から出てきた感覚に身を任せて少し涙を流して。 気が済んだら身を解いて動いているうちに眠ってしまったよう。 翌朝また少し転がってみたら、今度は海に身をゆだねたときの深い安心と喜びの感覚が出てきました。 パントマイムを稽古していた頃もこういう風に身体から色々なイメージが出てくるのを眺めるのが面白くて好きだった。 身体に残っているものはいつかの私の心象風景かもしれないし、どこかで見た小説や映画の記憶かもしれないし、トラウマ的な何かなのかもしれない。 ただ眺めて、消えてゆくのを見送る。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue