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オソイホドハヤイ

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「焦燥感」というものを観察してみると、エンジンを空ぶかししている車のようだと感じます。 自分の中に沢山のシミュレーションが走っていて、この選択をしたらどうなるのか、どこに問題があるのか、そのために何をしなくてはいけないのか、選択肢が沢山ありすぎて目移りしてしまい実行に移せない。 実行に移せないことでさらに焦ってしまってグラウンディングを失い、目の前にあることから逃げているような感じになってしまう。 結果もたらされる無力感や罪悪感。 オーバーヒートしてエネルギーを大量消耗しているのに、物事が前に進んでいかない感覚。 この焦燥感から抜け出すために、身体から学べることがとても役に立つことがあります。何しろ焦燥感は「感」というだけあって、その基礎には身体感覚があるから。 ここにいても大丈夫、失敗しても何とかなるという安心感。 少し引いた目で全体を見渡すための肚やグラウンディングの感覚。 連動性 そんなものを身体から学んでいくと、焦燥感から離れて合理的に思考を使えるようになってくる。本来の思考の機能を活かせるようになってくる。 SNSなどを見ていると「こうすればうまくいく」「これは良くない」という色々な人の価値観や成功法則のようなものが沢山流れていて、どれもそれなりにその通りだと思うことが多い。 けれどそれは書いた人の立場、書いた人のカードでの選択や価値観において意味があることで、現実には自分が今いる立場や持っているカードの中でしか選択はできない。 今自分はどんな状況でどんな立場なのか。 どんなカードを持っているのか。 自分を知り、自分が持っている選択肢と可能性を知り、その中から選ぶ。 それは「自分軸」ということでもあるでしょう。 今ここに確かにある身体に戻って、今ここで自分が何をどんなふうに実行しているのかに気がつく。 そんな力を身体から養っていくことで焦燥感から抜け出す足場を育てていくことができます。 ミヒャエル・エンデの児童文学 『モモ』 には、時間をつかさどる賢者マイスター・ホラの亀カシオペイアが登場します。 カシオペイアは甲羅に文字を浮かべ、30分先の未来を見通せる能力で主人公モモを導く存在であり、のろのろ歩くほど早く進むという不思議な特徴を持ちます。 うまくかみあって進んで...

やわらかな首

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首の自由度が高まったら、あちこちをきょろきょろと見回すようになった。 好奇心の強い子供みたいだ、と思う。色々なことに気がつく。 きっと今まで首が固まっていたから顔を向けることができず、気がつかなかったことが沢山あったのだ。 首を横に傾けると肩の上に耳をつけて頭を乗せることが楽にできる。 肩甲骨を枕にして横になっているような。 なんだか少し懐かしいな、と思う。 子供が小さいころ、遊び疲れるとよく車の中でこんな姿勢で眠っていた。 誰かの肩に安心してもたれかかっているときのようなそんな感じもある。 満たされて安心して、身をゆだねているときの感覚。 甘えるとか信頼するとか、それはきっとこういう感覚の中にあるのだろう。 身体が自由になることで初めて感じられる感覚がある。 そうなったときに初めてふれられる感情や世界の豊かさがある。 身体が自由になることはとても幸せなことだなと思うのです。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

背骨

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  背骨は24個の骨でできているけれど、本来はこの骨たちが構造なりにちょっとずつ動いて全体の動きを作るもの。 でも、日常動作はできていても背骨があまり動かない人は実はかなり多いです。 動けない場所があるなら、その分をカバーするために動ける場所がキャパシティ以上に動いて全体をカバーする。これが痛みや故障の原因になる。 背骨の中には運動神経、感覚神経、自律神経の役割を担う脊髄神経が通っている。 調子が悪い時に背中を捻じる動きをすると視界がクリアになったりちょっとすっきりしたりするのは、恐らく脊髄神経に刺激が入るからなのでしょう。 背骨が動く状態に整えてやると日常のちょっとした所作でも脊椎神経に刺激が入って身体の底上げをしてくれる。地味なようですが背骨が動かせるって大切です。 過緊張と自律神経の不調がセットになりがちなのは、こんな理由もあるかもしれません。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

選びなおす

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人と深く関われば摩擦が起こることがあるのは当たり前なのだけれど、そういうとき自分の反応を観察すると、今まで反射的に応答していたものを選択しなおすということができるように思う。 今の私(自分が望む結果を得るために選択しようとしている、割と全体が見えてる)がまずあって、反応1(イラっとした)、反応2(迎合したい)、反応3(どうでもいいや)みたいな感じで沢山の反応が同時に起きている。この反応を観察していると過去にこういうことが起きていたんだろうな、みたいなものがうっすら見えてくる。 言い返してみたら物凄く怒られたとか。しわ寄せを引き受けたらそれが固定化されてゴミ箱みたいな扱いを受けたとか。説明しようとしたけれど聞いてもらえなかったとか。 フラッシュバックと言えばフラッシュバックなのだけれど、巻き込まれずにとりあえず置いておけると、反応に巻き込まれるのではなくて今の私がフラッシュバックも意見の一つとして入れながら選択しなおす余地が出てくる。 今目の前にいるこの人は、過去の登場人物とは違うので、違うリアクションを返してくる可能性が高い。今目の前にいる人はどんな人?私はどうしたい?どんなバランスがいいだろう?   反応が語っているもの「もう傷つきたくない」とか「怖い」とかそういう、昔の私が抱え込んだ気持ちとコミュニケーションをする。多分、このコミュニケーションが大事で、何を選んでもいい。その結果を引き受けるだけのことだし、それは子供の頃みたいに何か一つでも失敗したら大惨事が起こるというようなことではない。 少し時間はかかるけれど、そうやって自分と折り合いをつけていくことができるとフラッシュバックが起きてもあまり困らない。この自分の中に起こる反応をまとめていく感じは身体を動かす時に自動的に出てきてしまうバラバラなベクトルの動きをひとまとめにしていくこととよく似ている。 自動的に起きてくる反応やパターンと間合いを保つことは、肚の感覚や自分の中心の感覚によってここに留まり続けられることで可能になる。 自分の身体とつながることは自分の心を大切にすることとつながっている。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue  

光

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身体に意識を向けて静かにしているとふわっと明るくなる感覚がすることがあります。 日が差してきたのかな?と思うような、柔らかくて暖かい光に包まれるような感覚。 日向ぼっこをしているよう。 セッションの中でも「明るい感じがします」とおっしゃるクライアントさんがいらっしゃいますし、私自身もそれを感じた経験があります。 慣れてくると日常の中でも、静かに身体に意識を向けているときに起こっていることに気がつくようになりました。 恐らく脳や神経系の中で何か良い変化が起きているのだと思いますが、心地よさとともに身体の緊張が抜けていくときに起きているようです。とても気持ちが良いので、大体そのままうつらうつらしてしまいます。 思い出せば私は子供の頃から緊張や不眠傾向が強かったのですが、ボディーワークを受けるようになってから徐々にその傾向が弱まってよく眠るようになりました。日中も疲れたら昼寝をするし、眠ると身体の緊張がリセットされます。 休息の質が上がることは、身体も心も回復や成長を助けてくれますよね。 そういえば、様々な文化や宗教の中で「光」は特別な意味を持ちますが、それとこの光の感覚ってきっとつながっているのだろうなあ、と思ったりもするのです。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

余白の力

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 余白があると、ひとはそこに何かを作りだす。 想像力をつかって。 余白を埋めてしまわないということは、その人の想像力が働く余地を残しておくということ。 内側から生まれてくるものこそ、本当の力だから。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

言葉の間合い

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作家のカズオ・イシグロの作品が好きです。 特徴は独特な一人称の視点。最初は主人公の一人語りがとても冗長に思える。なんでこんなことをつらつらと話しているんだろう? でも読み進めていくとなぜ主人公がどうでもよいようなことを長々語らなければならなかったのかが明らかになってくる。 この語りは読み手に対してという感じもあるし、半ば自分自身に対してな感じもあって、主人公の眼差しを介して物語を体験していく、触覚的な読書体験だなあと思います。 そういえば、カズオ・イシグロの作品は映像になっていたけれど、映像ではカメラは三人称の視点にならざるを得ない。どんな作品なのだろう? 興味がわいたので映像化された作品「日の名残り」を見てみました。 アンソニー・ホプキンズが相手役の女性とともに微妙な心理描写を見事に演じている。人の心の機微や時代のなかで翻弄されていく人々の様子が感じられて面白かったけれど、やはりカメラのように外側から状況を見て理解していくことと状況の中に身を置いて感じていくことは全く別の経験を生むのだなと思いました。 これは体験すること全般に言えて、身体の体験もともすると第三者的に理解していることがあるように感じます。そこに身を置いて感じているときって案外「わからない」ものだったりする。 自分の中に留まって感じ続けていると、あるときにそれが繋がって全体像が見えてくる。この「あっ!」という自分なりの発見、自分の内側とつながる創造的な経験は自信につながるように思います。 少し話が変わりますが、文章も書き手がどこにいるのかで随分と受ける印象が違います。 一人称の視点、自分の中にしっかり納まって身体感覚を大事に書くと、読み手と書き手が隣に並んで同じ風景を眺めるような親しさを感じられるように思います。写真の中に撮り手の眼差しを感じることがありますが、ちょうどあんな感じになる。 三人称の視点では向かい合って話をするような感じ。 言葉にも間合いがある。面白いな、と思います。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

お茶碗からバウンダリー

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先日、猿手というものを教わりました。 人間は親指と残り四指を向かい合わせてものを握りますが、猿は親指と残りの四指を平行にして使っているのだそうです。 親指とのこりの四指を向かい合わせて使うと道具を器用に使える一方で相反する向きのベクトルの力が働いて手首から肩まで緊張しやすくなりますが、猿のように手を使ってコップやペットボトルを持ってみると手のひらでものを持つような感覚が出てきて指や腕の力が抜けます。 以前習っていた茶道でのお道具の扱い方。古武術で教わった腕をらせん状に回して使う(着物のたもとを抑えて動かすような)動き。猿手のこの感じは、和の所作の中に多くあるように感じます。 この手でお茶碗を包むように胸の前で持つとほっとします。 「私」がお茶碗を包んでいるようでいて、同時に「こころ」が包まれてここにあるような。自分がここにいる、という感覚がじんわりやさしく感じられてきます。 そうやってお茶碗に触れていると「表面を大切に扱って、内側まで入り込まない」ということをふっと思いました。 人と人との関係性もそうかもしれない。 他人の内側をむやみにのぞき込んだりしない。表面を大切にするための技術がお作法とか礼儀とかいったもので、そうやって表面を大切にすることで適切な間合いが生まれてくるというところがあるのかもしれない。 お茶碗からバウンダリー。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

いのちの輪郭

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高校生の頃、山岳部に所属していました。 その頃の私は生きていることに疲れ果てていて、それでなんとなく自分の命がかかるような体験を求めていたようなところがあったと思います。 夏の合宿で登った北アルプス。おぼろげな記憶をたどると、燕岳、大天井岳、赤岩岳、槍ヶ岳から徳沢に降りて上高地まで歩いたのだと思います。 初めて森林限界を超えて歩いた稜線。青の底に宇宙の黒を感じるような空の色。 全てがむき出しで逃げ場もなく自然と向き合わざるを得ない。 滑落の危険、落雷の危険、暑さや寒さ。危険に晒されれば「怖い」と感じる。そう感じる自分はやっぱり生きたいのだな、と自分の心よりも身体からやってくるものを信頼しようと思った。 身一つで歩き切るしかない山歩きは、生きていることに疲れていた私の命の輪郭をくっきりと浮かび上がらせてくれました。 山の朝は早い。 2時に起床して、3時に朝食、4時にはテントを畳んで出発する。 起床してテントを出ると頭上に満天の星、天の川。 出発する頃には雲海が広がって、やがて朝日が昇ってくる。 大きな大きな宇宙というシステムの一部としての私。 昼間道端で死んでいた野ネズミやミミズ、家族で歩き回っていた雷鳥と同じように、私もただその一部としてここにあるのだと知りました。 とても壮大で、同時にとてもちっぽけな「私」というもの。生き物はみんなそういう側面を持っている。 あのとき山で感じた美しさは私が人の身体を見るときの原点のひとつ。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

目線と運

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セッションの後に「目線が上がる」方がいらっしゃいます。 私は目線が上がることには大きな意味があると思っています。 目線が下がってしまうと気持ちが内向きになってしまうように感じるし、そういう時は自動思考にも飲まれやすくなるように思います。 目線が上がると外の世界に意識が向く。自信の感覚も得られるでしょう。 遠くから苦手な人が歩いてくるのにも早い段階で気がついて、進路変更することができるかもしれない(笑) 遠くに好きな芸能人がいることに気がついてサインをもらいに行けるかもしれない(笑) 危険もチャンスも、目線が上がって外の世界に意識が向くからこそキャッチすることができるのだと思います。 誰かと目が合って仲良くなることも下を向いていたらなかなか起こらない。 ご縁も運も、目線と関係していたりするかもしれないな、なんて思うのです。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

小さな偉業

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先日セッションさせていただいた自閉症と重度の知的障害のあるお子さん。 親御さんがいつもお子さんの手や足にマッサージをされているのだそうです。 そういう風に親御さんが「触れる」という窓を開けておいてくださることでセッションにすっと入れるということがあるのだとボディーワークの大先輩から教えていただきました。 きっと親御さんはそんな風に思ってされていたわけではないのだと思います。 でも親御さんのタッチがお子さんにとっては他者や世界とつながるための通路になっているのだということ、セッションをさせていただいた後ではよくわかる。 世界は小さな偉業に満ちている。 そのことに気がつけたらいいな、と思います。 そして、自分のささやかな偉業にも誇りを持っていたいと思う。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

ふたりでおどる

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自閉症と重度の知的障害のあるお子さん(Aさんとします)にセッションをさせていただきました。下書きを読んでいただきご許可を頂いて私の経験を書かせていただきます。 姿勢の悪さと身長が伸びないことを親御さんが気にされてご依頼いただきました。 場を整えてつながりを作ってから少しずつ触れていく。 お身体を動かしてみるとノイズのような不随意な運動が沢山ある。でも身体が行きたいところ、行きたくないところを感じながら対話するように動かしていくと、最初は雑誌に夢中だったAさんが雑誌に目を向けたまま「あれ?」とこちらに意識を向けられたのが分かりました。 そのまま身体で対話を続けていくと、ノイズの向こうにAさん自身がいるのが感じられるようになってきました。遠くから聞こえる微かな音楽を聴くように耳を澄ませてみる。Aさんも目を細めたりして、同じ音楽に耳を澄ませていらっしゃるように見えました。 リラックスしたときでるというよだれがでたり、ご機嫌な時にされるという首振りの動きが出てきたり。 姿勢を変えて座って頂いて腕を動かしていると、だんだんとノイズが背景になっていってAさんと直接お話している感じになってきました。雑誌から目が離れて、窓の外の夕暮れの景色を少し不思議そうに眺めているAさんの姿は何か大切なことを思い出そうとしておられるように見えました。 窓の外の空間の広がりを感じた時の感じに腕のポジションを動かしてみる。 よく晴れた夕方の空を一緒に眺めている身体を一緒に味わう。 右腕を動かすと指をさすような手の動きが出てきたので、窓の外の見ておられる場所を指さすように動かして意識・意志・動きが調和するようなポジションを探す。そのままそっと身体の正中線を超えて手を反対側の口元へ誘導して何度か当ててみる。 ふっとAさんが振り向いて私の方を見てくれて目が合ったとき、内側の世界と外側の世界、両方がつながって「出会えた!」という感じがしました。 フェルデンクライス・メソッドではセッションを「二つの神経系のダンス」と言ったりするそうですが、ああ、この感じなんだ!と思いました。 そこには「する→される」の関係はなくて、Aさんが私の誘いに応じてくれたから今日の夕空を一緒に踊ることができた。存在に触れることは存在に触れられることでもあるのだと知ったとても深い体験でした。 生命はそれ自体が自律性を持つ。身体的知性と言...

バウンダリーと背骨

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「 人間脳を育てる 」の中では「脊椎のありかがわかり、自分で動かせる」ことが「自分という人間がわかる」「信念の土台」という風に書かれています。 自分の経験上もありそうな感じがするのですが、それはどうしてなのだろう? 赤ちゃんの発達を考えるとき、お座りの段階まで進むと脊椎が重力方向と一致する。 このとき、空間の知覚が平面的なものから三次元的なものに変わる。 そうすると、前、後ろ、横、上、下と全方位に空間認知が広がって、自分という座標点が認識できるようになる。 自分で移動する可能性が出てきて、能動的に働きかけることができるようになる。 それによって自分とそうでないものの区別がはっきりしてくる。 重力方向と背骨の方向が合致することで空間認知が変わり、移動可能性が出てきて、それによって世界とのかかわり方、自己認識が変化していく。 バウンダリー(自他の境界)というのがありますが、まず自分という認識がはっきりしていないと境界は引きようがない。心理的な自己探求も役に立つと思いますが、もしかしたら身体の感覚を育てていくことでバウンダリーの基礎の部分を補強できるなんてこともあるかもしれません。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

人間脳を育てる

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灰谷孝さんの書かれた「 人間脳を育てる 」を再読しています。 読みながら新しい発見が色々とあってとても面白い。今回は自分の経験も踏まえて、発達障害と複雑性PTSDが似たような症状を持っていたり重なっていたりする理由について考えることがありました。 この本では子供たちは自分の発達を促す遊びや動きを本能的に知っていて、それを邪魔したり止めたりせずにやりきらせることが発達を進めるのだと書かれています。 私自身も子供のころも大人になった今でも、これがやりたい!とドはまりして飽きるまでする遊びというのが時々あるので、なんとなく心当たりがあります。 ところで、 ポリヴェーガル理論 では「遊び」「好奇心」は腹側迷走神経複合体が活性化されたモードだと言われています。 とすると、自分の発達を促す遊びや動きが本能的にでてこられるようになることや遊べることで神経系の発達が進行するには、そもそも腹側迷走神経複合体の活性化が起こっている必要があるのではないでしょうか。 幼少期に逆境が多いと交感神経や背側迷走神経のモードで過ごす時間が多く、腹側迷走神経複合体のモードも立ち上がりにくくなる可能性が高い。そうすると原始反射の統合的な意味合いでの「遊び」ができにくくなるのではないか、と想像します。 もしそうだとすると、複雑性PTSDがあるような生育環境がある人は遊べなかったことでで未統合の原始反射が残っている部分が多くあるのかもしれません。 また、「人間脳を育てる」には原始反射の統合が学習能力・コミュニケーション・情緒にも関わってくることが書かれています。この3つがうまくいかないとよりPTSDにつながるような体験をしやすくなりそうだし、情緒の処理がうまくいかないと流せずに残る感情も多く持ちやすいのかもしれない、と想像します。 最近セッションの最後にほんの少しだけ発達に関わるようなムーブメントを入れています。これによって反射の統合の部分で安全・安心な感覚や自分とつながりなおすことを加えられると考えています。 そういえばセッションのとき楽しそうにされたり笑いだされる方って結構多いのですが、もしかすると腹側迷走神経複合体が活性化されて遊びのモードが立ち上がっているのかもしれませんね。それは思ったよりずっと深い意味のあることなのかもしれません。 余談ですが、灰谷さんには一緒に過ごさせていただいた時間の中で言...

流れてゆく風景

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床の上を転がったり、這いずったり。 横向きになって身体を伸ばしたり丸まったりしていたら、不意に膝をおでこに近づけたくなりました。その姿勢をとってみたら両手で頭を抱えてみたくなった。 最初は胎児かな?と思ったけれど、頭を抱えてみたら何人もの人に蹴飛ばされながらなんとか身を守ろうとしているようなイメージが出てきました。 ぎゅっと身を固くしてお腹の奥の方から出てきた感覚に身を任せて少し涙を流して。 気が済んだら身を解いて動いているうちに眠ってしまったよう。 翌朝また少し転がってみたら、今度は海に身をゆだねたときの深い安心と喜びの感覚が出てきました。 パントマイムを稽古していた頃もこういう風に身体から色々なイメージが出てくるのを眺めるのが面白くて好きだった。 身体に残っているものはいつかの私の心象風景かもしれないし、どこかで見た小説や映画の記憶かもしれないし、トラウマ的な何かなのかもしれない。 ただ眺めて、消えてゆくのを見送る。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

谷川俊太郎さんのこと

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谷川俊太郎さんが亡くなられました。 去年川口拓さんのメディスンプレイスのWSの後に一人でメディテーションしていたら鬱蒼とした杉木立のビジョンが出てきて「あ、戸隠だ。行かなきゃ」と思って初めて戸隠に行きました。 雨で寒くて観光する気力もなく入った観光案内所に置いてあったグランドピアノ。説明書きから谷川俊太郎さんと河合隼雄さんがすぐ近くの「ランプ」という喫茶店で何度も催しを開かれていたと知って行ってみることに。 薪ストーブの傍のロッキングチェアに腰かけて、焼きたてのアップルパイと珈琲を飲みながら河合隼雄さんの本を読んで過ごした一日。私にとってとても大切な時間と空間でした。 今年またランプに行ったら流れていたピアノの曲が去年も流れていたこと、自分がそれを覚えていたことに驚いて、この素敵なピアノは誰の曲ですか?と店主さんに質問して教えていただいた谷川賢作さん。帰宅してから曲を聴いて感動したことをXでポストしたら賢作さんが話しかけてくださってライブでお話もさせていただいたりして、不思議なご縁だなあなんて思っています。 ランプでは店主さんから「喫茶店を作るときに谷川俊太郎さんがレイアウトを細かく決めてくださって作った空間なんですよ」というお話も聞きました。 谷川さんの詩に流れているものとランプの空間の感じはよく似ている。静かで、神聖な感じもあって、でもやわらかく人を包んでくれる人間らしい暖かさもあって。 人の肉体はなくなっても、その存在とか感性は響き続けていくのだろうと思う。 そしてあのビジョンをたどって私が受け取るべきだったものは、賢作さんがFacebookに俊太郎さんの言葉として紹介してくださった、この言葉かもしれない、と思う。 「人はそれぞれが、それぞれのところでしっかりやればいいんだよ」 直接お目にかかったことはないのだけれど、凄く深いところから励ましていただいたように感じます。 ありがとうございました。 賢作さんのfacebook記事 。お二人ともすごいなと思いました。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

退行

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トラウマのフラッシュバックに対する漢方の処方、神田橋処方で知られる神田橋篠治さんの「 心身養生のコツ 」という本に「一度退却して体勢を立て直す工夫として、退行を自然治癒力の活動として捉える」ということが書かれていました。 青虫が蝶になる前に蛹になることと似ているのかもしれません。 一時的に今までよりもフィジカルやメンタルが下がったとしてもそこを通らないと前には進めないのだと納得していたら、いつもよりも「だめ」になってしまった自分を労わりながら待つことができる。 子供を見ていても、イヤイヤ期があったり、いじわるになってしまう時があったり、全能感からの尊大さが出てくる時期があって、それを調整しながら成熟していくのだなと感じます。 それらを悪として排除したり矯正してしまうのではなく、必要なプロセスのひとつなのだと知っていたら。「折り合いをつける」まで待つことができたら。そこに、本質的な変容・統合の道があるのではないかと思います。 大人になった自分に対しても「折り合いが付くまで待つ」ということを大切にしていきたい。 青虫の身体がいったん分解されて蝶として再構成される、さなぎの時代を。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

海水浴

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下田に海水浴に。 海に仰向けに浮かんだままフェルデンクライスのレッスンをいくつか。 身体の質が変わって、芝生の上に大の字で寝転がっているような感覚で 海に身をゆだねることができるようになりました。深さも怖さもほとんど感じない。 羊水のような温かさで柔らかく肌を撫でてくれる水。 潮の甘い匂い。 きらきらした光。 海と空の青。 アゲハ蝶が海面をわたってゆく。 世界はなんて官能的なのだろう。 生命の とても美しい側面を 身体いっぱい、満たされるまで感じた至福のひととき。 身体を学んできてほんとうによかった。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

感情と身体

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パントマイムをやりこんでいた頃、私が得意だったのは「不安」「怯え」の表現でした。 眼球を下斜め後ろに向けて背後を伺うようにすると「不安」や「怯え」の感情を簡単に呼び出すことができました。 今はそれだけの意識では「不安」や「恐怖」は呼び出されません。同時に肩を内側に巻き込んで少し胸郭を丸めて胸を丸めるようにして少し眉を顰めるくらいの動きをしないと出てこない。 つまり昔は眼球の動きだけで無意識にこの動作が呼び出されていたのだと思います。 そしてそれは恐らくトラウマからくる一種のフラッシュバック反応だったのだと思います。 感情と身体の動きのパターンがセットになってしまっていて、パターンの構成要素のひとつをしただけでセットになっている他の動きが無意識に出てきてしまう。そしてそのとき、動きとセットになっている感情も同時に呼び出されてしまう。 稽古したりボディーワークを受けたりしているうちに自然にこのセットは解消されていったようです。 ちなみに今は肩や胸郭や眉のコントロールをせずに眼だけで後ろを伺うと野村萬斎さん感が出てきます。返り討ちにできそう(笑) 身体からのトラウマの解除は気がつかないうちに起こっていて気がつきにくいことがあるかもしれない、と思います。劇的な変化ではないけれど穏やかで安全なことが多いです。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue

間

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目の前のノート。部屋の空間。光の色。そういう当たり前のものたちが穏やかにここにある感じ。自分がいる、という感じ。 「空間がある」という感じもするし「時間がある」という感じもする。 余白、空間としての間。 余裕、時間としての間。 私が私にくつろぐためのスペース。 急かされずに私が私であることを感じるための余裕。 間の中にゆとりがあって、ゆとりがあると安心する。 そして安心しているとき、人は満ちている。 間って不思議。 安全・安心な感覚の中で自分とつながりなおす Resonance Blue